あらすじ
ロンドンで独りで暮らす81歳のアンソニー(アンソニー・ホプキンス)は、少しずつ記憶が曖昧になってきていたが、娘のアン(オリヴィア・コールマン)が頼んだ介護人を断る。そんな折、アンが新しい恋人とパリで暮らすと言い出して彼はぼう然とする。だがさらに、アンと結婚して10年になるという見知らぬ男がアンソニーの自宅に突然現れたことで、彼の混乱は深まる。
感想
97分。
これは、ホラーよりも恐怖であり、ホラーよりも現実である。
アンソニーホプキンスの名演とともに、認知症を患う人間側の視点で、物語はすすんでいく。
時に軽快で饒舌、時に怒りであり、皮肉。
恐怖もあれば、とてつもなく、孤独。
そして、徐々にその世界も崩壊し、自らは、幼く、子供へと逆行していく。
その世界を、見事までに演じきったアンソニーホプキンズは、凄いとしかいえない。
老人という制限された感情表現の中で、
視線一つで、すべての感情を表現している。
穏やかである日や、そうでない日。
少しのきっかけで途端に、混乱に陥る様。
そのリアルな演技が、この物語を、まるでドキュメンタリーのような錯覚を起こさせる。
追体験・・・それは、現実として、やってくる現実の一つであり、
故に、この作品は、ホラーやサスペンスの恐怖とは一線を画した、
他人事では済まされない、新たな次元のものだといえる。
時折、自分の思い込みが強い時や、物忘れが続いた時、
ひそかな恐怖を覚えた記憶があると思う。
若年性アルツハイマーをこっそりと検索したり、
「そんな物忘れ、しょっちゅうあるよ」と人の言葉に安堵したり。
その、一時的な恐怖が、日々連続してやってくるのである。
出口のない、混乱の中で、
必死にもがきながら、怒り、震え、怯える。
そして、娘の役・オリヴィア・コールマンもまた素晴らしい。
2人の間には、もう一人存在していて、亡くなったルーシーの存在である。
父親はルーシーの方がお気に入りだった(少なくとも、アンはそう思っている)事もあり、
アンは、父親を看ながらも複雑な感情に翻弄される。
父親のいる場面は、認知症患者さんの世界である。
逆に、父親のいない場面が、現実の世界であり、
その場面を見た時にこそ、認知症を患う父親を看る苦悩が、浮彫にされている。
父親を愛しながらも、昔とは違う現実と、
自分の世界をも崩されていく焦燥感。
その葛藤を、見事に演じていたと思う、
よく 「ボケたら、何も分からないから、本人は幸せだ」という言葉を耳にした。
ひょっとしたら、たどり着く先が、そうかも知れない。
自分の存在すら分からなく恐怖の末が、そういった世界かも知れない。
けれど、そこに到達する前には、きっと長く続く・・・永遠ともいえる、
混乱と恐怖の世界が、確かに存在するのだと思う。
だからこそ、
今はまだ、平穏な現実の世界にいる私たちは、優しくなければならない。
そう、強く思わずにはいられない秀作だ。
さて、私は看護師であるが・・・・。
認知症の患者さんは、こういう世界に身を置いているのかと、
看護師歴29年の私は、恥ずかしながら、そう感じた。
看護師は私の天職であり、患者さんに寄り添って職務を果たしてきたと、
自負出来る看護師人生である。
それでも、この映画を観て、恥ずかしさを覚えた。
患者さんと接する中で、そういった世界にいるという考えがなかった。
寄り添うだけではなく、手を差し伸べるという手段を、選ぼうとしなかった。
自分にはまだ、出来る事があると思えた。
その手段がなんなのか、分からないけれど、
その世界を知ってこそ、出来ることがあると思えた。
「落ち着いて・・」という代わりに、
「大丈夫ですよ・・」と肩をさすってあげたい。
天気の良い日は、散歩に出てみたり、
好きな音楽を一緒に聴いてみたり、
美味しいお茶を一緒に飲んでみたい。
家族という間柄では、難しい感情が生まれる。
だからこそ、家族でない第3者だからこそ、出来ることがある。
そういう、使命感が生まれるからこそ、
この作品は、医療従事者こそ観て欲しい作品だと思うし、
観るべき作品ではないかと思う。
老いは、誰にも訪れる。
老いも、認知症も、死も、
どんな形であれ、自分に訪れる世界である。
このどうしようもない現実の中で。
だからこそ、優しくなけれなならない。
自分を慈しむように。
未来の自分を慈しむように。