昨日のリブロ池袋の公開対談の最後のほうで、岩井克人さんが「価値」の話をしているところで「ニーチェは人間は神を選ぶことができると言った」と言ったような気がしましたがよく聞き取れませんでした。しかし、そのような感じだったと思います。人間は「価値」を選ぶことができる。「物の見方」を「世界観」を「神」を「遠近法」を選ぶことができる。人間は「メタ価値」的存在だ。見慣れた既存価値に埋没し情報を摂取する。「堕落した情報があるのではない。情報自体が堕落なのだ」とフーコーだかドゥルーズが言ったそうだ。「情報は命令である」「情報を集めることは命令を集めることである」と佐々木中さんの本に書かれているらしい。「情報」をどれだけ集めても「物の見方」は変わらない。「情報」をきっかけにしてもたらされる別の何かに物の見方を変えられることはあるかもしれないが。「ある固定した物の見方」の「外」に出ることの魅惑。
者が誰かは問わない。貨幣は自由ももたらす。金を払えば市場にあるものを何でも買う事が出来る。しかし貨幣は差から産まれ差を産み出す。貧しい国は学びすぐに追い付く。しかしその競争の中には絶えず敗者がいる。敗者は決して消滅しない。貧困、格差は消滅しない。アリストテレスは世界には現実態と可能態があるという。こうである世界と、こうであったかもしれない世界。貨幣とはまさにこの可能態が現実化したものだという。いつかどこかで何かと交換するかもしれないし、しないかもしれない。しかし交換してくれる誰かがどこかに必ず永遠に存在しているという確信。いつか現実の商品になってくれるだろう可能態。その皆が信じているだろうこれからも信じつづけけていくだろうから私も信じるという信仰が揺らぐとき貨幣はゴミとなり在庫商品もゴミになる。ゴミに究極の可能態(神の残骸か天使の卵か…)を幻視し、収集する者こそゴミ屋敷の主人なのかもしれない。
リブロ池袋で岩井さんと大澤さんの対談を聴いてきました。資本主義の未来みたいなテーマでした。大澤さんの本を買って、サインも貰っちゃいました。言語と貨幣の共通性、自分で意味があると思っても他人が意味があると思わなければ通じない。価値を持たない。価値は他人に依存している。お金が欲しいのは、それを食べるため、眺めるためではない。いつかどこかで誰かと何かと交換するため。その誰かも、その手に入れたお金を食べるわけでも眺めるて楽しむわけではない。いつかどこかで誰かの何かと交換されることを期待している。信じている。遠いどこかの誰かにとってもそのお金が価値があるだろうと信じている。その根拠の無い信頼の無限の連鎖が資本主義。信頼の無限の連鎖への根拠なき信仰。それがなくなるのがハイパーインフレーション。貨幣の無価値化。人々は貨幣を吐き出す。恐慌は逆に商品に価値がなくなり、人々が貨幣を使わなくなり不況になる。ハイパーインフレーションにより貨幣が無価値化すると、結局商品も買えなくなり商品も無価値化する。昔は農村の人々が都市に流入した。現在のグローバリゼーションは安い労働力を求めて世界を動き回る。貨幣はある意味で平等主義者だ。金を払うなら誰かは問わない。そして自由も生み出す。金を出せば市場にあるものなら何でも買える。金を使わない自由もある。しかし貨幣は差から産まれ差を産みだす。