来年5月14日(土)に出展する予定です。明るいブースのミニブースです。『よじびる絵画館』という出展名で。絵の芸風というか作風というかは二十歳ぐらいで確立していたのかなあ。当時は色がなかったけど。色彩に興味がなかった。今もあんまりないけど。でも色もいいかなって感じで塗ってる。地のボールペンの線の上に線が見えるように色をめちゃくちゃな感じに塗るというアイデアが今の作風を作ったのだろうか。「線」が好きなのかね。何だろうか。ずっとノートに落書きみたいなのは描いていたけど。絵を作品として発表するのは16年振りぐらいかな。絵は好きなんだけどね。比較的向いてるのも絵かもしれないけど。でもその時その時で興味のある事しか出来ないしね。映画だったり小説だったり。まあ今は小説と絵か。小説が主というか力を入れてるけどね。絵の線の話だと「AKIRA」の中の廃墟の絵みたいな感じ、あれが上下とか奥行きとかがめちゃくちゃになった感じかな。廃墟の美学みたいなものに惹かれてるのはあるかも。そんな感じの線の上にポロックみたいな感じで乱雑に色が付いてる感じ。大竹伸郎さんみたいな感じのコラージュをコラージュ的な技法を使わずにやった感じというか。それを言うと小説もバロウズみたいなカットアップをカットアップ的技法を使わずに書いた感じというか。というとシュルレアリスムのオートマティスムみたいな事なのか?しかしあまり「無意識」という感じでもないか。むしろ無意識を切り裂く感じか。しかしそれを切り裂いているのは意識でも無意識でもない感じなのか。意識の奥深くというより対象物としての「物」に「直面」する感じ、というほうが近いか。その時に意識が混乱、崩壊、する感じか。
なぜ毎年毎年賞に応募するのか。書けなかった時期は送ろうにも送れなかったが。自信があるのだろうか。それなりの納得や愛着はあるが。やはり賞をとりたいから応募しているのであろう。とりたくないなら送らなければ良い。「プロ」になりたいのだろうか。確かにお金は欲しい。収入がないのは厳しい。認められたいのか。確かに、誰かかも全く評価されず理解されない、というのも厳しい。誰かに褒められたいとか、誰かを見返したいとかいうのもあるだろう。今朝ピアノで世界的な賞を受賞した日本人の女性のニュースがやっていたが、そこで「高みを目指す」という言葉があった。人はそれぞれの場所で高みを目指すのかもしれない。それに疲れてやめるのもひとつの悟りかもしれないが。プロ野球を目指す人がプロテストを受けたり。高校生が甲子園を目指したり。どんな世界にも戦いがある。しかし発表ということなら今ならネットや様々なイベントなどがある。賞を取れば桁違いに注目されるだろうが。しかし「注目」や「売れる」や「評価される」前に「作る」とか「考える」とか「感じる」ということがある。発表したい、認められたい、というのと共に、作りたい、考えたい、感じたい、というのもある。自分なりの何等かの境地に到達したいという思い。それは「評価」や「注目」に優先される「自己実現」といわれる何かのことなのだろうか。そこで実現されるのが「自己」なのか何なのかわからないが何等かの欲望の実現。境地への到達。見える景色の変化。より大きな充実感。達成感。そのようなものを目指しているのであろうか。それが「社会的立場」や「肩書き」や「名刺」であったりもするということか。賞を「上流階級」へのパスポート、「天国」へのパスポート、とでも考えているのであろうか。しかし何らかの扉をノックする行為であるとは言えるだろう。
今回も会場は蒲田で。来月5日に。座席はK‐20でした。テーブルに布でも敷いたほうがいいのか。いつも殺風景である。しかし今回は550サークル。随分と賑やかになりそうである。新作は『メルキド7号』と私の渾身のコピー誌『サボテン小話』である。『メルキド7号』は500円、『サボテン小話』は300円である。『サボテン小話』は表題作を含め4作の短編小説がはいっているのである。「小説」といっても「ストーリー性」とか「物語性」とかはないのである。「希薄」というべきか。わけのわからない感じのものである。ジャンル的に何と言えばいいのかわからないがとりあえず「シュール」といった感じなのか。『メルキド7号』のほうはまだわけのわかるものであり、力作小説と力作評論などがはいっている。小説は私小説風のものである。模索舎などにも納品しようと考えている のである。あと二週間ぐらいじゃないですが!着々と近づいてくるなあ。お釣りの準備とかしないといけないかな。参加は5回目かな。一回目は2004年。2005年2006年は休みか。2007年はカントリーマームか何かを貪り食いながら参加。2008年は右隣の美女に気を取られながら参加。2009年は左隣の美熟女に気を取られながら参加か。