早稲田に佐々木中さんの講演会に行って来ました。高田馬場駅の早稲田口から出てずっと東に歩いて行けば着くと思っていて実際着いたのですが道が暗いせいもあり、というか目当ての場所が文学部と違う場所にありそっちに行くのは初めてというのもあり道に迷いましたが何とか辿り着けました。話の内容はまず「前衛批判」から始まりました。意味に対して無意味を、論理に対して非論理を根拠に対して無根拠を立てる。それを先鋭的でラディカルでかっこいいと思っている小説家や芸術家への批判。非論理も非理性も非道徳も論理や道徳に依存している。正常があるから異常がある、異常でいられる。異常だけで自立して存在は出来ない。論理や正常や道徳や法律に守られている。最も狂気的なのは自分が狂っていない事を必死に証明しようとする人である。その時、正常であることの無根拠性があらわになる。道徳の発生は非道徳的である。サディスティックな支配者の調教、洗脳の結果である。「悪」をなせば「自動的」に自分を責める、奴隷的存在。そんな道徳や法律や論理に背くのはどういう事なのか?すでに非道徳なものに対して非道徳を立てる。あるいは道徳に従うことも非道徳的になってしまう。宇宙の生成に目的は無い。人間は宇宙の生成の一部である。人間に目的は無い。咲き誇る花に意味は無い。それは宇宙による浪費である。人間も宇宙による浪費である。しかし人間はその無意味に耐えられず論理や根拠や道徳を作り出す。生き延びるために。佐々木中は新しい論理、新しい道徳を作ることを提案する。それが革命であり文学であると。岡本太郎の「100%のでたらめは難しい」という話、ベケットには「言いたい事」があったという話や何かを表現するのではなく、表現するという義務自体を表現するという話などがあった。
先日渋谷ラビで購入したパナソニックの液晶テレビの画質を調整しました。肌色が何となく青白いのが気になるというか。人の肌色は十人十色で照明によっても同じ人でも全然ちがう。しかし何か青っぽいというか緑っぽい気がして、色合いを赤よりにしたり色の濃さを変えたりモードをリビングにしたりユーザーにしたりスタンダードにしたりオートにしたりしたがどうもしっくりこない。そこで別画面にある「色温度」というのを「中」から「低」にしたら画面が何かあったかみのあるいい感じになった。「色温度」というのはつまり高い温度の光は青白く、低い温度の光は赤っぽい、というところから来ているらしい。つまり「色温度」が高ければ画面が青っぽくなり低ければ赤っぽくなる。モードはオートにしています。バックライトとピクチャーは30、後は0。今のところこうですが、また変えるかもしれません。なかなか難しい。店頭で他のテレビと較べてみた時はあきらかにくっきりはっきりしていたのですが。なかなか微妙な肌色を比較するのは難しかったですかね。しかし調整で何とかなれば良いでしょう。しかしそう考えるとブラウン管というのは自然で美しいものでしたね。パナソニックは1994年頃に大須の米兵でビデオデッキの「画王」を買ったのですがこれも肌色が青白かったり土気色だったりくすんでいたということがあった。描写は繊細なのですが。好みもありますかね。
昨日フジテレビでやっていた「学び番組」の中でビー トたけしさんが最後のほうで、言っていたことで、「やりたいこと、おもしろいこと、学びたいことを見つけられただけで運がいい。その上、賞が欲しいとか一番になりたいとかは宝くじに何度も当たることを望むようなもの」というのがありました。本当にそうかもしれませんね。あんまり欲張っちゃいけないというか「これでいいじゃないか」というのもある。賞を取ったら取ったで大変なこともあるだろうし。まさに「運」かもしれないし、その道がその人にとって「最良」なのかもしれない。でもか「より上を目指したい」というのもある。でもそれは賞とかと関係なく勝手に努力すればいいだけのことかもしれない。「賞」とか「プロ」とかはおまけみたいなもん。そうとも考えられる。しかし「まんが道」や「バクマン。」みたいに死にもの狂いでプロを目指すとかも悪くない。でも彼らも基本、好きでやっているのだろう。そういう意味では「プロになれなかった」とか「賞が取れなかった」としても挫折ではない。番組でも言っていたがお金がなくても学校に行かなくても図書館があれば学ぶことは出来る。プロにならなくても賞を取れなくても自分の力を磨くことは出来る。修業も研究も思索も創作もどこでもできるのかもしれない。そしてそんなに夢中になれるものに出会えたことはとても幸運なことなのかもしれない。