その「人間」は「遠近法を持たない動物的な人間」「新しい道徳を作り出した人間」なのだろうか。「ありとあらゆる遠近法の欠如」も「ひとつの遠近法」であり「ありとあらゆる神話の欠如」も「ひとつの神話」なのだろうか。それこそまさに「明日の神話」なのだろうか。
「正気に耐えられないなら新しい正気を作れ」と言っていたか。新しい道徳、新しい論理、新しい正気。ただ反抗するだけではなく。正気に狂気を対置するのではなく。それが「前衛」批判だったのか。「正気」「論理」「道徳」なしでは生き延びられない人間。支配や搾取などの「非道徳性」にもとずいた「非道徳的道徳」ではなく、「共生の思想」にもとずいた「道徳的道徳」を新たに作り出すこと。それを話していたのだろうか。論理に対置させた非論理ではなく正気に対置させた狂気ではなく、真の非論理、真の狂気は「論理」や「正気」を究めたところにしか存在しない。徹底して論理的であること。徹底して道徳的であること。徹底して正気であること。そこに論理の非論理性、道徳の非道徳性、正気の狂気性、根拠の無根拠性が浮かび上がるのか。そのすべての遠近法がリセットされたような場所から、より好ましいと思われる遠近法を選択し新しく作り出せ、ということだろうか。無意味やデタラメや無根拠性に直面する。しかし意識は失ってはいない。何らかの思考は働いている。そこにある感情や現実。そこに論理や道徳はあるだろうか。やさしさや希望や選択や対話や判断や行動はあるだろうか。ある気がする。
会場へ行く道で見つけた中古ビデオ屋さんで「池袋ウエストゲートパーク」のビデオの4巻を180円で買いました。森下愛子さんが目当てです。放送されたのは2000年の春頃だったでしょうか。昨日の講演会ですが「我々は意味そのものだ」とも言っていたような。宇宙の一部、大洋に浮かんだ小さな無数の泡粒のひとつそのものであると。しかし目的は欠いていると。ロラン・バルトが「正しい使い方以外の使い方をするのが倒錯である」と言ったそうだ。例えばマッチ棒で耳掃除するような。すると本来的に目的を持たない人間が、何か目的を持って生きる事自体が倒錯になる。人間はみんな倒錯している。倒錯で何が悪い、と。ニーチェは「人間はある特定の遠近法無しでは生きられない生物である」と言ったが、犬も魚も鳥も猫も蛇もバッタもそれぞれの「遠近法」を持っている。生き延びる技術としての「芸術」「世界観」を持っている。宇宙も人間もすべてのものは意味そのものであるが目的を欠いている。我々は火にくべられ焼かれている。浪費されている。動物や虫や物はその浪費に耐えられるが人間は耐えられないということか。「からっぽの脳」とは人間だけが持つものなのだろうか。動物や物はそれ自体で充実している。存在の無目的性を自覚せずに済んでいる。人間の時間の意識や記憶が無目的性を発見してしまうのだろうか。あわてふためいた人間は「目的」を「理由」を「原因」を「道徳」を「神」を捏造する。人は目的を世界観を神を選択できる。新しい道徳や論理を作り出せる。未来を生きる人間のために。それにたとえ意味がなくともそうするべきと信じるしかないということか。ありとあらゆる遠近法の否定、ありとあらゆる道徳の否定、ありとあらゆる論理の否定、ありとあらゆる根拠の否定、ありとあらゆる意味の否定、岡本太郎の言った「100%のデタラメ」。そこに到達するのは難しい。鍛練が必要だ、と佐々木さんは言っていた。「100%のデタラメ」と「意味そのものである浪費としての宇宙、人間」と「新しい道徳の創造」はどのように関連するのだろうか。