「正気に耐えられないなら新しい正気を作れ」と言っていたか。新しい道徳、新しい論理、新しい正気。ただ反抗するだけではなく。正気に狂気を対置するのではなく。それが「前衛」批判だったのか。「正気」「論理」「道徳」なしでは生き延びられない人間。支配や搾取などの「非道徳性」にもとずいた「非道徳的道徳」ではなく、「共生の思想」にもとずいた「道徳的道徳」を新たに作り出すこと。それを話していたのだろうか。論理に対置させた非論理ではなく正気に対置させた狂気ではなく、真の非論理、真の狂気は「論理」や「正気」を究めたところにしか存在しない。徹底して論理的であること。徹底して道徳的であること。徹底して正気であること。そこに論理の非論理性、道徳の非道徳性、正気の狂気性、根拠の無根拠性が浮かび上がるのか。そのすべての遠近法がリセットされたような場所から、より好ましいと思われる遠近法を選択し新しく作り出せ、ということだろうか。無意味やデタラメや無根拠性に直面する。しかし意識は失ってはいない。何らかの思考は働いている。そこにある感情や現実。そこに論理や道徳はあるだろうか。やさしさや希望や選択や対話や判断や行動はあるだろうか。ある気がする。