ブリヂストン美術館で開催されているアンフォルメルとは何か?展に行って来た。「アンフォルメル」は、NHKで放送されたドラマ「TAROの塔」にも出て来た。1950年代のフランスで起きた美術のムーブメントで、批評家のタピエによって先導され日本にも持ち込まれ当時若い芸術家たちに衝撃を与え大ブームを引き起こしたという。「アンフォルメル」は当時アメリカのポロックやデ・クーニングの「抽象表現主義」に対応しているというか対抗して名付けられたという話もあるそうだ。しかし昨日見たこの展覧会内にあった美術の系統図ではポロックもアンフォルメルに入っていたし展示もされていた。その作家や作品が何主義かという規定は難しく、作家本人が否定したりするけど抽象表現主義とアンフォルメルは確かに似たものがある。タピエによればアンフォルメルはキュビスムも幾何学的抽象もシュルレアリスムも否定して出て来たそうだ。ヨーロッパを根こそぎ壊滅させた第一次世界大戦と第二次世界大戦の影響が大きいそうだ。ふたつの悲惨極まりない戦争が西洋文明の帰結だとすると西洋文明を駆動してきた合理主義や理性をもはや信じることは出来ない。その痛みや絶望からアンフォルメルは出て来たという。セザンヌもピカソもカンディンスキーも構築的に過ぎる。対象を写実的に見えるままに描くのでは「現実の瞬間の生」を表現できない。作家ヴォルスはサルトルとも交流があったという。実存主義とも響き合うものがあったのかもしれない。シュルレアリスムも理性の枠のようなものの外に出きれていないという感じで否定されていた。タピエによれはニーチェとダダだけが受け継ぐべき遺産だという。芸術家はみんなそれぞれ必死に苦闘していたんだろうけど。ヨーロッパ文明とか理性とかの外に出るという巨大なテーマがあったみたい。1900年前後あたりの科学技術の爆発というか波の物凄さは今では想像できないほどのものだそうだ。1910年代は自動車の時代だったという。そんな物質文明の嵐のようなものへの抵抗として抽象画が出て来たというのもあるそうだ。ランボーもゴーギャンもレヴィ=ストロースもヨーロッパを脱出しようとした。ヨーロッパの閉塞感というのはハンパないものだったのかもしれない。その閉塞感は地球をおおいつくし、そこからまだ我々は出れていないのではなかろうか。しかし先人の死闘、ニーチェやダダやアンフォルメルが何かを、光を指し示しているのではないか。脱出しよう。
蛸とか犬とか壺とか橋とか腕とか鼻とかの言葉。宇宙とか地球とか海とか世界とか道とか土とか大地とか青春とかの言葉。それらは個別の体験をまとめて、ひとくくりにして表現するものである。キリンとか象とか。私の言う、私の思うキリンはあなたの思うキリンとぴったり一致しているであろうか。一致していないが通じる。私がキリンと言うときそれは私の脳内で、心の中でどのキリンを指しているのか。私はいつキリンを知ったのか。何回キリンを見たのか。何回キリンを思ったのか。私のキリンの記憶はどうなっているのか。様々な、いくつかのキリンの体験。キリンの経験。そのキリンの記憶。脳内を揺らめくキリンの像。名前。ものの名前。そのものの名前。それは具体的な個別的なそれ自身の名前ではない。共通的の認識とか仲間の分類とかにより整理され到達するある意味虚構の世界観。人工的な世界。固有名とは何か。例えば飼い犬に太郎と名付ける。しかしその太郎はどの太郎か。父の見る太郎と母の見る太郎と僕の見る太郎は一致しているのか。10年前の太郎と今の太郎は一致しているのか。猫の脳を移植された太郎は太郎なのか。太郎の脳を移植された誰かは太郎なのか。みんなが太郎の脳を移植されたらみんなが太郎になるのか。そしてその脳を取られたら太郎でなくなるのか。それは脳の無い太郎ではないのか。脳の軌跡がそれなのか。脳の影が。別の脳がそこに来れば更新されるのか。ロボットに人形に机に蠅に煎餅に歩道橋に脳が移植されたらどうなるのか。脳が消えてもそれがあればそれは眠った太郎のようなものなのか。その脳の数が一万だったら100兆だったらどうか。それが風のように通り過ぎ新たな脳が100兆来たらどうか。それが永遠繰り返されたらどうか。脳でなく心だったら精神だったら魂だったら記憶だったら神経だったら。その太郎は太郎なのか。具体的、個別的、今ここにいる、この太郎とはどこか。何か。その太郎はその太郎か。
小林秀雄だったか、美しい花はあるが花の美しさは無い、と言ったという。ビートたけしが今度の震災を二万人が死んだひとつの事件ではなく一人が死んだ事件が二万ある、と捉えるべきだと言ったという。ボールは友達、だといいけど友達はボール、だと寂しい、とツイッターで見た。キャバ嬢が女子大生だといいイメージだけど女子大生がキャバ嬢だと悪いイメージ、とツイッターで見た。ボールは友達と友達はボールだとボールは友達だと友達のひとつとしてボールがある印象。友達はボールだと友達のすべてがボールの印象。キャバ嬢が女子大生だと向上心がある感じ。女子大生がキャバ嬢だと堕落した感じ。美しい花は目の前にあるひとつの花。そのひとつの花に美しさを感じ感動している。花の美しさはいくつもの花、無数の花、「花」という概念。ありとあらゆる花に共通する、花である限りすべてが持つような、持ってしかるべきなような美しさ。可愛い子供と子供の可愛さ。とか。それは花は無い。ひとつの花はある。と変奏されもしようか。二万人の命。二万人の生。二万人の死。それはひとつの共通の事件によりもたらされたように見える。しかしそこには一人一人の人がいた。ひとつの命ひとつの生ひとつの死があった。ひとつの死。ひとつの事件。それが二万件あった。一人が死んだ一つの事件が二万あった。「二万人が死んだ、二万人が死んだ」と言っていては触れられない「真実」がそこに現れている。忘れてしまいがちな真実である。