蛸とか犬とか壺とか橋とか腕とか鼻とかの言葉。宇宙とか地球とか海とか世界とか道とか土とか大地とか青春とかの言葉。それらは個別の体験をまとめて、ひとくくりにして表現するものである。キリンとか象とか。私の言う、私の思うキリンはあなたの思うキリンとぴったり一致しているであろうか。一致していないが通じる。私がキリンと言うときそれは私の脳内で、心の中でどのキリンを指しているのか。私はいつキリンを知ったのか。何回キリンを見たのか。何回キリンを思ったのか。私のキリンの記憶はどうなっているのか。様々な、いくつかのキリンの体験。キリンの経験。そのキリンの記憶。脳内を揺らめくキリンの像。名前。ものの名前。そのものの名前。それは具体的な個別的なそれ自身の名前ではない。共通的の認識とか仲間の分類とかにより整理され到達するある意味虚構の世界観。人工的な世界。固有名とは何か。例えば飼い犬に太郎と名付ける。しかしその太郎はどの太郎か。父の見る太郎と母の見る太郎と僕の見る太郎は一致しているのか。10年前の太郎と今の太郎は一致しているのか。猫の脳を移植された太郎は太郎なのか。太郎の脳を移植された誰かは太郎なのか。みんなが太郎の脳を移植されたらみんなが太郎になるのか。そしてその脳を取られたら太郎でなくなるのか。それは脳の無い太郎ではないのか。脳の軌跡がそれなのか。脳の影が。別の脳がそこに来れば更新されるのか。ロボットに人形に机に蠅に煎餅に歩道橋に脳が移植されたらどうなるのか。脳が消えてもそれがあればそれは眠った太郎のようなものなのか。その脳の数が一万だったら100兆だったらどうか。それが風のように通り過ぎ新たな脳が100兆来たらどうか。それが永遠繰り返されたらどうか。脳でなく心だったら精神だったら魂だったら記憶だったら神経だったら。その太郎は太郎なのか。具体的、個別的、今ここにいる、この太郎とはどこか。何か。その太郎はその太郎か。