自身、2児の父として最近おもうことがある。
子育ては「なんとなく」では絶対にできないということ。
昨今、痛ましい児童虐待のニュースが連日報道されている中でその残忍さに目を向けられないものも多い。
子供にとっては些細なことで手を挙げる親でも唯一無二の存在。依存しなければ自分が生きていけない。怖いけど好き。そんな中で毎日を生きているのかとおもうと心が張り裂けそうになる。
うちへおいで。温かいごはんと温かい布団を用意してあげるから。
そんなことばをかけずにはいられない。本当にそうおもう。
そんな自分も自身のこどもに手を挙げないか、感情的にならないかといえばそうではない。
妻からするとそんな怒ることでもないでしょと言われたことも何度かある。
父でも母でも子供と同じように一人の人間であり、感情がある。イラつかないことがないというわけではないし、子育てに家事に、仕事にストレスを強く感じていれば泣き声ひとつ、わがままひとつでカッとなってしまうことも多分にある。
ただ、それが一般に日常化しないのはやはり自分が受けてきた愛情を自分の子にも与えたいというものの他ならないと思っている。
まだ満足にしゃべれない乳児が自分に対して微笑んでくれる。カタコトでしか話せない子供が「ありがとう」「好き」などと言ってくれる。
それに対して「キモい」「ウザい」と突っぱねる親がどこにいるだろう。やはりそういった場面では愛おしいとおもうのが普通の親ではないだろうか。
ただ、そういった虐待を繰り返す親もまた子供と同じように被害者なのではないか、というのが自分の考えでもある。
自分の親に満足に愛情を受けて育てられず、子への接し方がわからない。泣いたとき、癇癪を起した時の対応の仕方がわからない。または嫁ぎ先が両親の住むところから他県で親への相談を気軽にできないなど状況はさまざまであるだろうが、子育てに悩んでいる親は少なくないはず。
自分はどうかというと、妻がやはり悩んでいて些細なことで手は挙げないにしても怒鳴ったり叱ったりを繰り返していた。対して父である自分はそれに乗るわけでなく、子を優しく抱きしめ「お母さんに怒られたか。大丈夫。大丈夫。」とあやす。逆に自分が怒ったときは妻が抱き、あやす。夫婦間で飴と鞭の役割ができていると思っている。これがうまくできないと夫婦とも共倒れになり、ほぼ無抵抗の子に矛先が向いてしまう。そうならないためにいわゆるアースの役割が必要だと考える。昔でいえばそれは自分の親であったり、近所の諸先輩方であったのだろうが、それが今はいないことが多い。
絶対的に手を挙げる親が悪い。ただ、その親も悩んでいるということを知ってもらいたい。一方的に責めるのではなく、親子双方を救う方法はなかったのかと、考えると涙が止まらない。