絵画モデルM子の告白
まだ、私が安田氏のモデルになる前の事である。
中野で行われた女性編集者を励ます会のパーティーで逢っていらい、私と安田氏は、いろんなパーティーで顔を合わせるようになっていた。
銀座や赤坂のホテルでの出版パーティー、新宿での作家たちのクラブの懇親会…。
いつ,どこで逢っても、安田氏はにこにこして親切に話しかけてくれる。
いつも私は後からかけつける事が多かったのだが、安田氏はいつも私を見つけては、
「先生お疲れ様」
と声をかけてくれ、コップにビールをいちはやく注いでくれるのである。
一度、大きな出版パーティーに、サリー姿で行った事がある。
神戸出身なので、サリーやチャイナドレスを数多く持っているのだ。
透き通った生地でできたそのサリーは、金の縁どりが輝き、肌がうっすらと透け、大変セクシーだったと思う。
「やあ、藤先生、とてもおきれいですね」
パーティー会場で逢った彼は、とてもサリー姿を喜んでくれた。
「ありがとうございます。でも、サリーって普通のワンピースより安い値段で買えますし、ほら、このブレスレットだって、300円の安物なんですよ」
私が思わず謙遜めいた言葉を口にすると、
「安物か高価なものかなんて、僕にはなんの関係もありません。ただただおきれいだと見惚れているだけですよ」
めずらしく彼は、強い口調で言った。
そのパーティーでは、そのとき連載していた雑誌の女性編集者も同じテーブルにいて、喋っていた。
3人とも新宿まで同じ方角だったので、地下鉄に乗った。
所が、女性編集者は、
「私はここで降りて乗り換えますので」
途中で下りてしまったのだ。
とてもよく気のつく人だったので、何かを感じたのかも、知れない。
新宿につくまで、私たちは話を交わした。
そのとき、非常に心に残った言葉がある。
「安田先生は、何をなさっている時が一番幸せですか?」
と質問すると、彼はしばらく無言で考えてから、私をじっと見つめて、
「好きだと思う方の絵を描いている時でしょうね、きっとーー」
と言ったのだ。
電車が新宿につく、そこから、それぞれ違う私鉄に乗りかえる。
彼は、駅の階段を降りながら、
「あのう…もしよろしかったら、新宿でお茶でも飲んで帰りませんか」
と私を誘ったのだが、
「今日はまだ仕事を残しておりますので…」
とまたも断ってしまった。
彼はパーティーで顔を合わすたび、誘ってくれる。
いつも私は断る。
でも、彼の態度はちっとも変わらない。
またパーティーで逢うと、親しみのある笑顔で近寄ってくれ、なにやかやと話しかけてくれる。
それが何回か続いて、
(この人は私が誘いをお断りしても、ちっとも怒らない。態度も変えないでいてくれる、安心できる人なんだな)
と思うようになり、気を許すようになっていった。
すごく人見知りして、人と普通に会話することすら苦痛だった私だが、しだいに彼には心を許し、彼と喋ることが苦痛でなくなったのである。
始めて彼と出逢った中野のスナックの会場で、別の人の出版記念パーティーが行われた時のこと。
そのとき私は、ウエストまである長い黒髪をソバージュヘアーにして、真っ赤なワンピースの背中に降ろして、高いピンヒールをはいていた。
会場に入るなり、私はスツールに座った彼の後ろ姿を見つけると、
「ここに座ろう」
と言って、彼の横に座った。
彼の横には、すでに見知らぬ中年夫人が座っていたのだが、スツールを一つずらして、空けてくれたのである。
この時には、いくらお断りしてもちっとも態度を変えないで親切に話しかけてくれる安田氏に、なついでいる状態だったのだろう。
(この人は私にいつも気を配ってやさしく話しかけてくれる…)
スナック会場の壇上には発起人が立ち、挨拶が始まる…。
絵画モデルの告白(A氏の館)
「先生、もうお帰りにならないといけない時間ですわ」
私はそっと、K氏の肩に呼びかけたーー。
だけど、彼はじっと、箪笥の前に立ち尽くしていた。
箪笥に貼って合った写真はカードは、もうとっくに読み終えたはずである。
だのに、ずっと無言で立ち尽くしているのだ。
「先生、…お帰りの電車がなくなってしまいますわ」
まち子は再度、呼びかけた。
それでも彼は身動きしない。
「先生、お帰りにならないと…」
3回目に呼びかけた時、無言でつっ立ったままの彼の顔を、ふっと見た。
彼は、ぐっと口を引き結んで、まるでかたくなに抵抗しているように見えた。
もう一回私が、「帰ってください」 と声をかけたら、泣きだしてしまうんじゃないか…。
そんな顔に、私には見えたのだ。
もう一回、帰ってと声をかけたら、彼は泣きだしてしまうんじゃないか…そう思ったとき、私は、負けていたのだ。
「先生、今日はお泊りになられますか?」
そう声をかけたとき、彼はかすかに顎を引いてうなずいた。
布団を引く。 なにしろ6畳一間しかない古いアパートなのだ。
布団も1組しか、敷けない。 その布団のはしとはしに、私たちはおとなしく横になった。
手を伸ばせば触れる位置に彼はいるけれど、彼もじっとしてるし、私もじっとしてる。
仰向けに寝そべったまま、何分経過しただろうか。
「月明かりがきれいですね、先生」
私は呟いた。 もちろん、もう心臓は、最大限にどくどくしている。
「そうですね」 と彼。
本当に、月明かりの美しい宵だった。
月の白い光が、灯りを消した部屋の中に、さし込んでいた。
幾度私は緊張のあまり、唾液を飲み込んだかわからない。
そして、そんな様子を彼に気付かれないようにと、心を配った。
(眠らなくちゃ、眠らなくちゃ) そう自分に言い聞かせた時、不意に彼が、私を抱きしめた。
それから彼は、男性としてふるまった。 私たちは、その夜、結ばれたーー。
彼が寝入ってからも、私はなかなか寝つかれなかった。
うとうとした明け方、私はふっと自分が両手をばんざいのように伸ばしているのに気がついた。
すると彼が、まったく寝たまま無意識のうちに私に近づき、腕の中にぎゅっと抱きすくめた。
寝たままの無意識の彼の行動だったので、強く印象に残っている…。
朝の7時に目を覚ました彼は、コーヒーを一杯だけ飲むと、仕事場に帰っていった。
タクシーを拾える道路まで、見送った。
彼はタクシーに乗り込みざま、
「また、電話しますよ」
と、明るく大きな声でいった。
その声が、いつも無口な彼なのに、明るく弾んでいた。
私も、朝の光の中で、むしょうに心が弾んだのを、覚えているーー。
驚いたことに、その日の夜、彼は私のアパートにやってきた。
なんの電話連絡もなく、夜中の1時に戸を叩くので、開けたら、でろでろに深酔いした彼だったのだ。
素足にスニーカーの彼は、にこにこと柔らかい表情だった。
「銀座で飲んでいました」
と彼は告げた。
「毎晩飲んでいるんです。でも、必ず朝の7時には起きて、事務所に行って原稿を書くんです…」
「先生、すごいタフですね。毎晩飲んでらっしゃるんでしょう?」
「毎晩ですね。でも、今日は途中で1時間ばかり、クラブの中で、寝ちゃってました」
すやすやと眠る彼は、さぞ可愛いだろうなあ…と思った。
ものすごく飲んで酔っ払っていた彼は、布団に横になると、すぐに眠りについた。
私たちは朝、愛しあった。
そして三日目、私は知りあいの男性作家から電話で誘われて、飲みに出かけてしまった。
場所は、その男性作家の自宅の近くのスナックで、紹介したい編集者がいるから…と呼ばれたのだ。
飲みながら、もし、Kさんがアパートにきたら…という懸念が胸をよぎった。 でも、三日続けてはこないだろうし…とも思いなおしたのだ。
その日は、アパートに帰りついたのが、深夜の2時過ぎだった。
私は、その日も彼がアパートに来たのを知った。
でも、扉を叩いても暗くてシーンとしているので、引き返してしまったのだろう。
扉のところに、ボールペンの小さな字で、(帰る)と書いてあった…。
告白! 絵画モデル(スナックにて)
私たちは、静かに飲んでいた。
カウンターの前に立ち、相手をしてくれたのも、もの静かなオネエサンであった。
その30過ぎのオネエサンが、彼のことを好きになってるんじゃないかな…ふと思った瞬間がある。
「時々お客さんで、帰り送ってやろうといって、店の前でずっと待っている人がいるんです。そんな時、なんだか怖くて、私…」
何の葉脈もないのに、彼女は突然そんな話を始めたのだ。
「本当に怖くて、いやだわ、そういう男の人、あとをつけてきたりするでしょう…私、一人暮しだから、心細くて」
丸で彼を誘っているような口ぶりなのだ。
横に私がいるのに…。
だけど彼はなんのコメントも彼女に返さなかった。
「そうですか」
とうなずいただけだ。
私たちは静かにおしゃべりをし、カラオケを数曲唄って、そのスナックをあとにした。
私のアパートに帰る。
小さな古いぼろっちいアパートである。
箪笥の扉には、いろんな写真が貼ってあった。
大阪に住むおばあちゃんに預けてある、娘の写真。
そして、その頃里親になっていた、東南アジアの子供の写真。
彼から来たカード…。
箪笥の前に立って熱心に見ていた彼は、
「里親になってるんですか?」
と聞いた。
「ええ、彼が中学を卒業するまで、仕送りをするんです。といっても、わずか3千円です。それでアジアの子供たちは、学校を卒業できるんです」
私は説明した。
「そうですか」
もうとっくにカードの文面は読んだはずなのに、彼は根が生えたように、じっとそこに立っていた。
6畳一間の、小さな小さなアパートである。
もう12時近かったのではないか。
「先生、もうお帰りにならないといけない時間ですわ」
私はそっと、彼の肩に呼びかけたーー。
告白 <絵画モデルM子>
作家K氏との出逢い
彼は扉を鍵で開けると、
「どうぞ」
と低い声で言った。
好奇心一杯。おそるおそる部屋の中に入る。
広々としていた。
クリーム色の壁に、木のデスク。
テレビもあった。
「先生、見ていいですか?」
私は彼の許可を得てから、デスクに置いてあった手書きの原稿用紙を、ぱらぱらめくった。
以前から、K氏の小説の大フアンだったのだ。
ベッドのはしに腰かけて、彼とおしゃべりをする。
何気ない会話を交わしていたと思う。
そのとき、思いもかけず、彼がいきなり私にがばっと襲いかかってきたのだ。
思わぬ展開にびっくりした。
「先生、やめてください!」
私は抵抗した。
そして、ぱっと起きあがって駆けだすと、ドアを開け、廊下に出て、そのまま、帰ってしまったのだ。
えらいことになった…。
途中までは、楽しく飲んでいたのに…。
タクシーの中で、まち子は考えていた。
でも、絶対にあの場は帰ったほうがよかったのだ。
そのほうが男性は好きになって、必ず追いかけてきてくれる。
最初のデートで許してしまうなんて、とんでもない。
恋が始まらない。
さあ、彼は、次にどんな手を打ってきてくれるだろうか…。
こうなったら、女の方が優位である。
お手なみ拝見…。
そんな気持ちで、私は彼の出方を待っていたのだが、さすがというか、その次の朝早く、8時くらいだっただろうか、もう、彼から電話がかかってきた。
「昨夜は一人で帰してしまってすいません。無事に帰れましたか?」
と彼は聞いた。
その他のこと、ベッドで襲いかかったことなどには、いっさい振れない。
「ええ、大丈夫でしたわ、先生、すてきな場所に連れて行ってくださって、ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。とても楽しかったですよ」
そうおだやかに言った彼は、たたみ込むように、
「よかったら、今日また、逢えませんか?」
と言った。
「えっ、今日ですか?」
「まち子さんは、お好み焼を焼くのが得意だって、言ってたでしょう。あなたのアパートに行きますよ」
そう言えば、そういう話しをした。
「それは嬉しいんですが、今日はちょっと、予定が…」
実際に用事があったので、言葉を濁すと、
「では、明日は?」
と彼はすぐ聞いた。
「明日も、ちょっと…せまいアパートですし…」
「そんなこと、僕はぜんぜんかまいませんよ。今週で、開いてる日は、いつですか?」
「そうですね…」
考えたあげく、
「金曜日なら」
と私は答えた。
「わかりました、金曜日に行きます。楽しみにしていますよ!」
いつも寡黙な彼が、本当に嬉しそうな、弾んだ口調になった。
「はい、お待ちしています」
「じゃあ、またお目にかかりましょう」
彼は金曜日に、まち子のアパートのある近くの駅にやってきた。
お好み焼きが、彼の本当の目的でないことは、わかっている。
「まず飲みましょう」
と言うことになって、
駅近くの商店街のスナックで、飲んだ。
静かなスナックで、薄暗く照明を落とした店内に、客は私たちとあと1組だけだった。
カウンターに並んで座る。
30代の女性が、カウンターの中から、私たちの相手をしてくれた。
その日の彼は、白っぽいジーンズに、素足に白いスニーカー。
薄く透き通った胸肌が見える黒いレーシーなシャツ。そのシャツの胸ポケットには、やはり黒地に柄の入ったレースハンカチを垂らしていた。
二人は、非常に静かに飲んでいたのだが、カウンターの中のお姉さんには、この異色のアベックは、どのように写ったのだろう。
私はその日、セミロングの普段着のチャイナ服を着ていた。
お姉さんは彼に、
「ご職業はなんなんですか?」
と質問した。
「僕ですか。歯医者ですよ」
そう冗談を静かに言って、彼は苦笑いをした。
カウンターの中のお姉さんは、おたなしいタイプの女性であったが、明らかに彼に興味を持ったように見えた。
カウンターのもう一方のはしにも他の客がいたのだが、お姉さんは、私たちの側に、すぐ帰ってきた。
タイミングよく、水割りをすすめてくれたり、歌をすすめてくれたり、する。
彼が最初にカラオケで歌を唄った。
小柳るみ子の、「お久しぶりね」。
彼がこの歌を好む理由を、私はわかる気がした。
(もう一度もう一度生まれ変わって。もう一度もう一度巡りあいたいね)
このフレーズに、じんと来たのだ。
彼はこんな風な思いにとらわれたことが、かってあったのだろうか…。
告白絵画モデルA子(K氏とのデート)
※ ※ ※
その当時、まち子にはつきあっている男性がいた。
しかし、彼とは、ほんの数ヶ月のつきあいで、しかも、まったく壊れかけていた。
まだその男性とつきあい初めての頃、知りあいの編集者数人と銀座で飲んだ時、編集者が彼の噂話をしているのを聞いたことがある。
「まったく、K先生はすごいよな。彼の事務所に待機して、原稿待ちしてたんだけど、次から次と女から電話がかかってくるんだ…。一人には明日行けそうだと言って、次のには今日行けるかもしれない、その次のには、数日内には顔を出すよといってるんだ。そんな電話がひっきりなし。いったい、幾人の女がいるんだろうな」
「そうそう、奥さんとはずっと別居中で、あの先生、ホテル暮しなんだろう…」
編集者たちは、まち子がその男性とつき合いがあるとは夢にも思っていないのだろう。
気楽に喋り続けている。
まち子は、
「へー、そうなんですか~」
相槌を打ちながら、内心真っ青になっていた。
まちこの目に、つきあい始めたばかりの慣れ染めのK先生は、まことに真面目で、女ずれしていない、年に似あわない純真派の中年男性にみえていたからだ。
そのK氏が、そんなプレーボーイだったとは!!!!
目の前が真っ暗になり、まっ逆さまに体が谷底に落ちていくようだった。
K氏との慣れ染めは、まち子が、1通の暑中見舞いを彼に送ったことだった。
夏の虹 今年はいい事ありそうな
そんな意味の俳句を添えていた。
その夏の暑中見舞いは、ヒットが多く、送った男性のほぼ全員から、なんらかのアプローチが返ってきた。
だが、まち子が待っていたのは、たった一人、K氏からのアプローチだったのだ。
だから、電話を取ったとき、受話器の向こうからK氏の、低い、独特の声が聞こえたときの歓びと言ったら!!
飛びあがりたいほどであった。
K氏は、
「暑中見舞いの葉書を、ありがとう」
と言った後、
「一度、暑気払いに、飲みに行きましょう」
と誘ってくれた。
彼は、銀座のシティホテルを定宿にしている。
駅ビルの本屋で夜の7時に待ち合わせて、彼の行きつけの小料理屋に連れて行ってもらった。
銀座にもこういう風情の所が残っていたのか…と感嘆するような、風情のある路地の日本家屋の居酒屋であった。
そこで飲んだとき彼は、
「まち子さんは着物を着て、こういう小料理屋のお女将になったら、似あいそうですね」
と言った。
「今、どんなところにどんな物を書いているんですか?」
と訊ねたあと、
「いろんな出版社を知っているので、紹介してあげましょう」
とも、言った。
彼は、大ベストセラー作家である。
どこの出版社も、売れる彼の原稿は、手の出るほど欲しい。
彼に頼めば、有力な出版社とコネがつき、まち子の小説も採用されるかも知れない。
だが、その頃のまち子は、作家として売れることより、彼の彼女になる望みの方が、大切だった。
だから、
「そうですか。よろしくお願いします」
と、答えただけだった。
K氏はけっして饒舌な人ではない。
むしろ、人と喋るのが苦手なタイプに見えた。
まち子もそうなのだ。
ところが、そのK氏が、自分には、いろんな話題をふって、一生懸命しゃべっていてくれている…そんな姿に、ジーンと来る。
「場所を変えて飲みましょう」
K氏が定宿にしている銀座のホテルの高層階にあるバーに行った。
バーの中は非常に暗く、東京のきらめく夜景が見える窓に向かって、半円形のボックス席が置かれている。
ムーディーなバーだ。
そこでも勧められるままにカクテルを何倍も飲んだから、頭がくらくらしてきた。
「先生は、どんな女性がお好きなんですか?」
と訊ねると、彼は、
「週刊誌のインタビューみたいなことを聞きますねえ」
と低く笑った。
彼はジーンズに素足にスニーカーをはいたラフな格好だったが、ピアジェのすばらしい宝飾時計を腕にしていた。
素人目にみても、その時計は、数千万円はするだろうと思うような、高価な時計であった。
「すてきな時計ですね」
その時計を褒めた後、まち子が、
「私にはきっと、一生持てないような、高価なお時計ですね」
と言うと、彼は、
「そんなことはない」
満足そうに笑って、軽く私の手を握った。
「先生は、すべてに満たされていらっしゃいますわ。売れっ子作家で、働き盛りで…お出しになる小説は、すべてヒットするし、人気があって…きっと、公私とも、満たされてすごくお幸せでいらっしゃるんでしょうね」
まち子が呟くように言うと、K氏は、ぽつりと、言った。
「いや、決して幸せではないですよ。僕は、満たされていません」
そのK氏の言葉は、その後に、
(いつも、孤独で、淋しいです)
そんな告白が続きそうな、雰囲気と哀切さを持っていた。
彼のこの言葉を聞いた瞬間、まち子は恋に落ちたのだ。
フォーリンラブ…。
まさにその英語のような意味の恋だった。
(彼が、僕は満たされてません、と言っている。じゃあ、じゃあ、私がもし彼とおつき合いしたとして、彼はきっと、私でも喜んでくれるんだ!!!)
燃えるような喜びが、湧きあがったのだ。
しばらく、無言の時間が、続いた。
「先生、私もう帰らないと。どうやら、酔ってしまったようですから」
と言うと、
「もう少し、僕の部屋で話しませんか。テレビでカラオケも唄えるようになっているんです」
彼が誘った。
(K先生が缶詰になってこもっている部屋って、どんな部屋だろう? )
興味があったので、着いて行く事にした。
ぺーぺーの新人作家のまち子には、ホテルの部屋で缶詰になるなんて、まったく無縁の話しだったのである。
彼はそのホテルに部屋を借りっぱなしなので、もちろんいつもキーを持っている。
エレベーターで一緒に下に降り、ホテルの廊下を歩く。
もう心臓が、かなりどきどきしていた。
男性と密室で、二人きりになるのだから。
それを承諾したのだから、まち子だってK氏が最初からすきであった。
彼の文章はすばらしい。場面の描写力が抜群なのだ。
彼に逢う前から、まち子はK氏の小説のフアンだった。
めったに切りぬきなんかしない彼女が、K氏の小説だけは、月刊誌から切りとって保管していた。
読み返すと、勉強になるのである。
K氏は、さっき居酒屋で、
「いつも目に入る物を観察していなさい。犬が歩いていれば、その犬、出逢った人の仕草。特徴。飲んだカクテルの色や果物…そうすれば、描写力のある文書が書けますよ」
と日本酒を片手にアドバイスしてくれた。
K氏の小説のフアンで、彼の生き生きとした文章に心酔していたまち子は、彼と初めてパーティーで顔をあわせたとき、それはそれは嬉しかったものだ。
その時は、ほんの数分の、軽い会話しか、交わさなかったのだが…。
彼は扉を鍵で開けると、
「どうぞ」
と低い声で言った。
好奇心一杯。おそるおそる部屋の中に入る。
広々としていた。
クリーム色の壁に、木の机。
テラスの前には、ソファのセット。
テレビもあった。
机の上に、シャーペンで書いた彼の自筆の原稿がのっている。
「先生、見せていただいていいですか?」
彼にことわってから、彼の原稿をぱらぱらとめくった…。
告白”絵画モデル まち子” 出逢い
私の手元に残った、美しい絵の数々。 それが、あんなにも激しい愛憎の中で描かれたものであることに、私は不思議さを憶える。
これらの絵が、どうやってアトリエの中で描かれたのか、それを綴っていきたいと、思う…。
● 雨の中の出逢い
6月のその日。雨がふっていた。
だが、中野の駅前、ブロードウエイ商店街の通りを横に曲がった飲みや街の中にある、スナックKの会場は、満席で熱気に満ちていた。
ある小説月刊誌を出版している女性編集の、快気を祝う会だったのだ。
豊島区に住む女流小説家の藤まち子は、つい3分ほど前、小学校1年生の幼い娘の手を引いて、会場にかけつけたばかりだった。
会場のスナック店内を見渡す。
店内の壁際はすべてぐるっとソファ席になり、向かいあうようにその前に置かれたテーブルを挟んで、ずらっとスツールが置かれていた。
壁際の席はすでに満員である。
まち子は、会場の末席、ドアに近い方のスツールに座った。
子連れの身なので、遠慮している。
とはいえ、腰近くまである長い黒髪を垂らし、真っ赤なキャミソールに、超ミニの黒のスカート。
しかもそのミニスカートには鋲の前ボタンがならんでいて、下から3つめまで開けてある…。
座ると、白い太股がむっちりと覗く…。
は、いささか華やか過ぎた装いかも知れない。
幼い娘は、白い提灯袖のブラウスに、水玉のフリルのスカート。
レースのついた白いソックスに、サンダルをはいている。
まち子が腰をおろした席の向かい側には、非常におとなしそうな、50過ぎくらいの小柄な紳士が、座っていた。
頭髪にちらほら白いものが混ざっている。
夏のグレーの背広に、非常にお洒落なループタイをしていた。
そのタイが、黒い石を金と別の石が囲んだ、見たこともないような、シックなデザインだった。
お洒落で、おとなしそうな人…というのが、彼の第1印象だった。
「よろしく」
まち子は目の前の男性に、軽くしゃくをした。
彼も、はにかんだ表情で、頭を軽くさげた。
前のステージに、大手出版会社の、k文社の男性編集長、山村さんが立って、
「a出版社の名編集長、夏子さんが、病を克服して無事に手術をおえ、ここに復帰いたしました。まだ、退院したばかりで、あまり無理はできないとのことですが、これからの大いなる活躍を期待し、病気快復のおめでたさをしゅくして、乾杯の音頭を取らせていただきたいと思います…」
と挨拶をした。
女性編集長の夏子さんが壇上にあがる。
40過ぎの、肥った貫禄のあるすご腕の女性編集長だ。
「このたびは、私のために、こんな盛大な会をひらいてくださり…」
a出版社は、非常に小さい出版社だが、官能小説系の月刊誌を出している。
小さい出版社にも関わらず、執筆メンバーは、有名作家、直紀賞作家、売れっ子作家、そうそうたるメンバーが、名前をつらねている。
それは、この名物女性編集長の手腕と人脈によるものが多い。
まち子も、まだ素人で神戸にいたとき、彼女の雑誌に投稿し、採用してもらった。
それ以来書かせてもらっているので、この会にも呼ばれたのだ。
「よっ、まち子ちゃん来てたの? お嬢チャンも一緒? キレイなママと一緒でいいねえ」
「まち子チャン、飲んでる?」
顔見知りの画家さんや、出版関係者が、声をかけてくれる。
目の前の50過ぎの男性は、寡黙な人らしく、彼の方からは、あまり話しかけてこない。
まち子はもっぱら、彼の隣に座った、和服の着流しの時代劇作家、s先生とばかり喋っていた。
50過ぎの男性は、きわめておとなしく、水割りを飲んでいる。
本の時折、まち子の娘、奈美に、
「お嬢チャン、なにをするのが好き?」
とはなしかけたりしている。
男性の水割りが空になっていたので、
「先生、お作りしましょうか?」
とまち子が声をかけた。
本来なら、自分の名詞をさしだし、挨拶なり事故紹介をするのがこういう席では礼儀なのだろうが、まったくまち子は人と話すのが苦手であった。
できたら、最小限の言葉しか、喋りたくない。
けっして傲慢というのではなく、上手く会話をする自信がないのである。
この頃のまち子は、対人関係恐怖症といってもよかった。
でも、水割りをお作りしましょうか? くらいは言ってもさしつかえあるまい…。
水割りを作るために、ボトルや氷が置かれつたテーブルは、まち子の後ろにあるのである。
時々このスナックのホステスさんがまわってくるのだが、手が足りない。
水割りを作りに行って、彼の前に、
「どうぞ」
と置いてあげた。
「あ、ありがとう」
ぎこちなく頭をさげた彼は、意を決したように背広のうちポケットから、名詞をさしだし、
「ぼ、僕、藤先生の挿絵を、HE出版社で描かせていただいているんです…保田と言います…」
挨拶をした。
こころなしか、彼の声が震えている。
それが、彼との出逢いだった…。


