絵画モデルの告白(A氏の館)
「先生、もうお帰りにならないといけない時間ですわ」
私はそっと、K氏の肩に呼びかけたーー。
だけど、彼はじっと、箪笥の前に立ち尽くしていた。
箪笥に貼って合った写真はカードは、もうとっくに読み終えたはずである。
だのに、ずっと無言で立ち尽くしているのだ。
「先生、…お帰りの電車がなくなってしまいますわ」
まち子は再度、呼びかけた。
それでも彼は身動きしない。
「先生、お帰りにならないと…」
3回目に呼びかけた時、無言でつっ立ったままの彼の顔を、ふっと見た。
彼は、ぐっと口を引き結んで、まるでかたくなに抵抗しているように見えた。
もう一回私が、「帰ってください」 と声をかけたら、泣きだしてしまうんじゃないか…。
そんな顔に、私には見えたのだ。
もう一回、帰ってと声をかけたら、彼は泣きだしてしまうんじゃないか…そう思ったとき、私は、負けていたのだ。
「先生、今日はお泊りになられますか?」
そう声をかけたとき、彼はかすかに顎を引いてうなずいた。
布団を引く。 なにしろ6畳一間しかない古いアパートなのだ。
布団も1組しか、敷けない。 その布団のはしとはしに、私たちはおとなしく横になった。
手を伸ばせば触れる位置に彼はいるけれど、彼もじっとしてるし、私もじっとしてる。
仰向けに寝そべったまま、何分経過しただろうか。
「月明かりがきれいですね、先生」
私は呟いた。 もちろん、もう心臓は、最大限にどくどくしている。
「そうですね」 と彼。
本当に、月明かりの美しい宵だった。
月の白い光が、灯りを消した部屋の中に、さし込んでいた。
幾度私は緊張のあまり、唾液を飲み込んだかわからない。
そして、そんな様子を彼に気付かれないようにと、心を配った。
(眠らなくちゃ、眠らなくちゃ) そう自分に言い聞かせた時、不意に彼が、私を抱きしめた。
それから彼は、男性としてふるまった。 私たちは、その夜、結ばれたーー。
彼が寝入ってからも、私はなかなか寝つかれなかった。
うとうとした明け方、私はふっと自分が両手をばんざいのように伸ばしているのに気がついた。
すると彼が、まったく寝たまま無意識のうちに私に近づき、腕の中にぎゅっと抱きすくめた。
寝たままの無意識の彼の行動だったので、強く印象に残っている…。
朝の7時に目を覚ました彼は、コーヒーを一杯だけ飲むと、仕事場に帰っていった。
タクシーを拾える道路まで、見送った。
彼はタクシーに乗り込みざま、
「また、電話しますよ」
と、明るく大きな声でいった。
その声が、いつも無口な彼なのに、明るく弾んでいた。
私も、朝の光の中で、むしょうに心が弾んだのを、覚えているーー。
驚いたことに、その日の夜、彼は私のアパートにやってきた。
なんの電話連絡もなく、夜中の1時に戸を叩くので、開けたら、でろでろに深酔いした彼だったのだ。
素足にスニーカーの彼は、にこにこと柔らかい表情だった。
「銀座で飲んでいました」
と彼は告げた。
「毎晩飲んでいるんです。でも、必ず朝の7時には起きて、事務所に行って原稿を書くんです…」
「先生、すごいタフですね。毎晩飲んでらっしゃるんでしょう?」
「毎晩ですね。でも、今日は途中で1時間ばかり、クラブの中で、寝ちゃってました」
すやすやと眠る彼は、さぞ可愛いだろうなあ…と思った。
ものすごく飲んで酔っ払っていた彼は、布団に横になると、すぐに眠りについた。
私たちは朝、愛しあった。
そして三日目、私は知りあいの男性作家から電話で誘われて、飲みに出かけてしまった。
場所は、その男性作家の自宅の近くのスナックで、紹介したい編集者がいるから…と呼ばれたのだ。
飲みながら、もし、Kさんがアパートにきたら…という懸念が胸をよぎった。 でも、三日続けてはこないだろうし…とも思いなおしたのだ。
その日は、アパートに帰りついたのが、深夜の2時過ぎだった。
私は、その日も彼がアパートに来たのを知った。
でも、扉を叩いても暗くてシーンとしているので、引き返してしまったのだろう。
扉のところに、ボールペンの小さな字で、(帰る)と書いてあった…。