挑戦について

 

Ⅰ 挑戦することの意義

 

 「日本人はもっと挑戦するべきだ。」と、筆者は訴えたい。日本だけではなく、海外のことについても積極的に取り入れ、取り組んだことのないことに果敢に「挑戦してほしい」。でなければ、自分や日本人、或いは日本は終わってしまう。

これを『自分事だと思える人』はどれほどいるだろうか?

 おそらく、多くの人、特に若い世代はこのことについて自分事だと認識していない。危機感を持つ以前に、そもそもそんなことに興味がないのだ。しかしながら、筆者はそれについて一概に悪いとは言わない。それはなぜか?

 それは「自由だから」だ。

日本では、若者の中でこの「自由」が浸透している。悪く言えば、この自由というぬるま湯にゆったりと使っているのだ。ここでいう自由とは何か?それは「貧しくなる自由」だ。貧しくなるというのは、自らの進化を捨ててしまう、ということだ。日本のことだけを見続け、海外の発展には目を向けない。ましてや、日本のことにすら深く目を向けない者はただただ貧しくなっていくだけである。しかし、それもまた自由だ。

 では、「挑戦すること」とは果たして何であろうか。それは「自らの進化を恐れないこと」である。進化することによって何かが変わる事、人は良くこれを恐れる。恐れるがゆえに進化をしない。それではだめだ。進化によって何かを得ることが出来なければ貧しくなるだけだ。また、たった一回の進化だけではない。何度も進化しなければならない。すなわち、「挑戦し続けること」が今の日本人に大切なのだ。

 

Ⅱ 何故挑戦しないのか

 

 Ⅰから、我々は挑戦しなければならない、ということがわかっていただけただろうか。進化せず、現状に浸っているだけでは、ただただ自身が貧しくなっていくだけである。では、「何故挑戦しないのだろうか?」。挑戦することで何かを変えなければ、自身が貧しくなっていくことを分かっていないのかもしれない。しかし、私はそうではないと思いたい。挑戦しない人の多くは、「挑戦することが怖い」と認識しているのだと思う。ではここで、筆者の昔のことを例に挙げよう。

 私が小学生のころ、授業中に手を挙げて発表する機会があった。その際、自分が何か見当違いなことを言うのではないかとびくびくしていた記憶がある。当時の筆者にとっては、とてつもない挑戦だった。失敗すると恥ずかしいと考えてしまう。だからこそ、なかなか挑戦することができない。挑戦する人、すなわち、その場面において手を挙げて発表する人はクラスでもほんの一部で、大多数は手を上げずに黙っている状況であった。(後から考えれば、それほど間違ったことは考えていなかったのだから発表すればよかったのにと思う。)

 挑戦は何故怖いのか。私が考えるに、「失敗したときに自分がどうなるかがわからないから」だろう。失敗した際にどうなるかが想像つかない、想像したことが起こってほしくない、誰かに何か言われるかもしれない、そんな「不確実な不安」が挑戦の邪魔をする。ゆえに、失敗することは恥ずかしいことだという認識が固定化し、挑戦する人が減ったのではないだろうか。

 確かに、挑戦することはリスクを伴う。それで恥ずかしい思い、悔しい思いをするだろう。また、挑戦することは、今持っている何かを失う可能性を孕んでいるかもしれない。そういった、「挑戦することによるデメリット(負の面)」が着目されすぎているために、挑戦しなくなったのではないか。

 挑戦を妨げるもの。それは、「失敗した時のリスク」なのである。

 

Ⅲ 挑戦しなければいけない理由

 

 Ⅱでは、人が挑戦しない理由・原因について、挑戦はリスクを伴うからであるという話をした。では、挑戦しなければどうなるのか、ということを考えてみたいと思う。

 まず、挑戦しなければ「私たちは変わることができない」。

 例えば、資格試験の過程を考えてみよう。資格試験のために勉強するのは、何か新しい知識、或いは技術を身につけるためだ。また、資格試験を受けるためには、基本的に受験料が必要になる。見事合格すればそれは自身の成功体験となって、今後の人生に良い影響をもたらしてくれるだろう。しかし、落ちてしまった場合、テキスト代・受験料・今までの時間、いろいろなものが報われないときもある。しかし、それは本当に意味のないことになってしまうのだろうか。私が考えるに、それはむしろ逆である。

 資格試験の過程をさかのぼると、プロセスを分解していけば、「テキストをどうやって効率よくこなしていくか」、「わからないことに対してどうやって理解して身につけていくか」、「くじけそうになった時に、どうやって奮起して励んでいくか」など、様々なことが集まっている。つまり、資格試験に向けて勉強し、受験するということ「そのもの」がチャレンジによってもたらされる財産なのだ。また、それを手にしたときには、挑戦する前と比較しても、なにかが進化しているはずだ。資格試験に限らず、何かしらの挑戦をしなければ現状維持のままである。現状維持を続けることは自由だが、代償として何も得ることはできない。つまり、結局貧しくなる。それはあなたにとって「リスク」だ。挑戦することにはリスクを伴うが、そのリスクは「成長の可能性を孕んだリスク」である。反対に、挑戦しないことに伴うリスクは「ただただ貧しくなっていき、退化していく可能性を孕んだリスク」である。これをひかくすれば、どちらのリスクを取るべきかは一目瞭然だ。私たちは果敢に挑戦してかなければならないのだ。

 

Ⅳ 挑戦することで現代社会を変えていく。

 

 これまでの章で、挑戦することにはリスクを伴いつつ、それを承知で挑んでいくことが成長への道だと話してきた。これは個人にとってはもちろん、「国」にとっても同じなのだ。

 大人というのは、入れ物のようなものだ。そこに何を入れるのかは、自分の責任であるのだ。『挑戦する人がいて、初めて何回も挑戦できる社会に日本は変わっていく。(安倍晋三)』

この言葉が示すように、先陣を切って挑戦するものが、国という巨大なものでさえ動かしていくのだ。皆が率先して挑戦していくその姿勢こそ、他者を、国を動かしていくのだ。

 何かに挑戦して、いろんなことを吸収して成長し豊かになることも、何の挑戦もせず、貧しいままでいることも、どちらも選べる。そう、自由なのだ。

 現代は、これまでも話してきたように、実に様々な課題を抱えている。変わらなければいけないけれども、変わることができていない日本の社会システムそのものもあるだろう。そのようなものは、政治家や特定の団体を批判するだけでは改善されない(事実、それだけでは改善されない。)。だからこそ、筆写は「日本人の意識改革」が必要だと訴えたい。特に、SNSを使った活動が盛んな若い世代の人たちには、挑戦し己を変える勇気を持ってほしいのだ。

 変わろうとする意志を持つ人がたくさんいて、皆で果敢に挑戦していくことで、初めて日本は変わることができる国になっていく。挑戦が孕むリスクは確かにマイナスだが、それはリスクだけに着目した場合だけであって、そのリスクは成長への大きな後押しだと思う。皆で挑戦することで、大きなリスクは国を推し進めるための『大きな後押し』になるのだ。

 

 リスクとは、「人が何かを変えるための原動力」なのかもしれない。

 

 

 

 近年よく耳にする「ハラスメント」というワード。主にセクハラ・パワハラ・モラハラ・マタハラといった、いわゆるハラスメント問題をニュース等で取り扱うことが増えているからだろう。

 

 そんなハラスメントには、様々な種類がある。上記の例は主要なものであり、ほかにも探せばいくらでもあるだろう。そんななか、最近SNSで話題になった新たなハラスメントがある。それは、「マルハラ」である。一見、何を対象としたものかわかりにくいが、この丸とは、文章の終わりにつける「読点『。』」である。これを文末につけたメール文が、「怒られているように感じる」ということで、ハラスメントの対象となっているようだ。

 

 これを知った時、私は初見で「敏感すぎるのでは?」と思った。友達とのメールなら多少固いな、とは思うが、これが社用メールや上司との連絡であれば何の変哲もない文章ではないだろうか。

 

 さて、この問題を友人とさらに考えてみたところ、「『ハラスメントだ』と言ってしまえば自分の都合のいいように周りを支配できるのでは?」という疑問が出てきた。ハラスメントという言葉に敏感になっている現代社会において、ひとたびこの言葉を放てば、相手は何もできなくなる。それを逆手にとってハラスメントという現状を、私たちは「ハラスメントの乱用」だと考えた。

 

 ハラスメントとは、「人の尊厳や人格を侵害するような行動・言動」である。しかし、現状のハラスメントは、なんでもないことでさえ、嫌だと感じたらハラスメントとして訴えようとする傾向が強まっている。先に挙げたマルハラがその例だろう。そこで、私たちは、ハラスメントの正しい在り方がゆがんでいるのではないかと考えた。

 

「ハラスメント」というものを武器にとして、自分の都合のいいように周囲の環境を変えようとしてしまう人が増えているのが今のハラスメント問題だ。相手に対して「それはハラスメントだ」と言えることが、被害者を守る「盾」であったはずなのに、一方的な押し付けを通す「矛」になっている。正しい在り方のゆがみが、「ハラスメントの乱用」という一種の社会問題を作り上げているのだ。

 

あからさまなハラスメントには、被害者・第三者ともに毅然とした態度で立ち向かうべきである。しかし、いじめやこのハラスメント問題の根本の難しさである、「人によって感じ方が異なる」といった特徴を考慮するために、各人に今必要とされるのは、「社会的モラル」である。社会的モラルをもつことで、ハラスメント行為そのもの・不必要なハラスメント認定の双方に気を付けることができるはずだ。

 

 昨今、何かと話題になる「LGBTQ」。「身体は男性であるが心は女性」やその逆、「男女両性ともに性的対象である」、「心が男性か女性かわからない」、更には「男性でも女性でもない」、など様々である。

 

 

 自分はどれほどLGBTQを理解しているのだろうか?

 

 昨今、話題となっているのが「LGBTQ」である。定義では、「性的指向や性自認が多様である人々の総称」とされている。

このような性自認を持つ人たちに対して、こういった人たちがいるのは至極当然だという認識が当たり前である必要がある。国連はLGBTQへの理解促進のために、同性愛の犯罪指定緩和や権利保護の対策を講じた。しかし、世界では未だに性差別が行われているのが現状である。

 性差別はあってはならないことである。誰もが自分と周囲の人を大切にしなければいけない。そのような考え方の変化がおこり、LGBTQの人たちへの理解が近年加速しているのである。

 現在問題となっているのは、LGBTQの浸透がよくない方向に進んでいる分野があることである。今回は「LGBTQとスポーツ」に的を絞って考えていきたいと思う。

 

 

【Ⅰ】スポーツにおける性別の棲み分け

 

オリンピックや日本選手権などのスポーツ大会をテレビやSNSで観戦したり、或いは自身が経験したことは誰しもあるだろう。誰にでも身近な存在であるスポーツの基本は「男女別」である。これについては特に問題ないだろう。この区別が存在する理由は、勿論「身体的な能力差がある」からである。

 

例えば、筆者は陸上競技を経験したことがあるが、一般的に参加することができる大会で「男女混成競技」が行われることはない。基本的に世界大会等でのみ行われる。理由はもちろん「男女の身体能力に覆せない差があるから」だ。男女混成競技といっても、男女の人数は同じであるし、1vs1の勝負ではない。だから、男女の差をちゃんと考慮しているのだ。

 

さらに、陸上には「障害(ハードル)種目」が設けられている。走りながら障害物(ハードル)を飛んでいく競技だが、ここにも男女の差を考慮したことがある。それは「ハードルの高さ」である。男性よりも女性のほうが筋肉量が少ないとされているため、跳躍力を考慮して女子競技のハードルのほうが低く設定されている。

 

これらは陸上競技における話だが、他の競技も同じように男女で競技を区分しているのが通例だ。通例や常識にとらわれない、というのは最近のトレンドではあるが、身体的性別の棲み分けがなされてこそ、公平なスポーツが行われるということを忘れてはならない。

 

 

【Ⅱ】スポーツとLGBTQの乖離(かいり)を是正する必要性

 

 前章でスポーツにおける男女の区別の重要性について書いた。これらはあって然るべきであるはずだが、近年、この考えが揺らぎ始めている。

 

私がそれを感じ始めたきっかけとなる記事がある。それは、「陸上競技において、身体が男性であるが心が女性の選手が女子競技に出場して優勝」というものだ。

 

驚嘆した。

 

これはたとえ心が女性であろうと、男子選手が女子競技に出ているのとまったく同じではないかと私は考える。幼少期に男児と女児が走るのはまだ理解できる。それは身体的能力の差が小さいからだ。しかし、私が見た記事では間違いなくシニアの競技であった。スポーツにおける男女の公平性は、身体能力差の考慮が前提であった。これがまかり通ってしまえば、スポーツの公平性などは担保されなくなってしまう。

 

生まれ持った身体の性は変えられない。抗うのは自由だが、心の性と身体の性を履き違えたままにするのはスポーツに対する冒涜(ぼうとく)以外の何物でもない。世界的にLGBTQを理解しようとする姿勢は素晴らしいものだが、他の概念へ乱雑に押し付けて公平性やアイデンティティ、重要な要素を蝕んでいく行為は褒められたものではない。

 

「LGBTQへの寛容さ」と「スポーツに元来必要とされている、身体的な性を区分することで担保される公平性」に齟齬(そご)が生じ始めているのが現状だと言える。

 

LGBTQを理解するのは大切な反面、難しいところがある。その例として、LGBTQがマイノリティー(いわゆる少数派)であることが挙げられるだろう。

 

アメリカの大学の調査によると、アメリカ人の3.8%が性的マイノリティーであるとわかった。また、イギリスの国家統計局によると、イギリス人の約2%(約84万人程度)が性的マイノリティーというデータが得られた。日本では、人口の約10%が性的マイノリティーであるとされている。

 

このように差はあれども、やはりLGBTQの人たちは少数派なのだとわかる。その少数派の人たちを蔑ろにするのはあってはならないことだ。だからこそ、少数派の人たちを考慮した、柔軟なやり方・思考を生み出し、皆で共有し、先に挙げた二つの乖離を無くしていくことが今のスポーツに求められているはずだ。

 

 

【Ⅲ】性的マイノリティーとスポーツを守るために

 

ここまで、LGBTQとスポーツが生み出す問題点について考えてきた。心と身体の性が異なっているのに、男子競技・女子競技という決められた枠にとらわれるのは形容しがたい不快感が生まれるのだろう。一方で、スポーツにおける公平性を担保するには、身体能力によってどこかでグループ分けをしなければならない。

 

そういった人たちのために「性的マイノリティーの枠」を設けるのも一つの手だと思う。しかしながら、それは「彼らがそれを望めば」だ。私はそう思う。

 

男・女に続く第三の性があってもおかしくない世の中であるし、第三にこだわらなければさらに多くの性があるのだ。スポーツがそれを拒むのではなく、寛容に、互いを認め合ってスポーツにLGBTQを浸透させていけばよいのだ。

 

ただ、ここで再度明言しておくが、それはあくまで「心の性」であって、スポーツの公平性を確実にするために、身体的な性については受け入れて競技に臨むことを徹底するべきだ。

 

いまや人間にとって欠かせないスポーツという概念を、守るべき考え方は守りながら、柔軟に時代の流れに沿って変えていくことが望ましいはずだ。

 

 

この記事を読んだ方は、「LGBTQとスポ-ツ」について深く考えて見てほしい。

 大切なのは、「思考を放棄しないこと」だ。