【多様】
——いろいろと種類の違ったものがあること。また、そのさま。さまざま。「多様な人材」「多様な価値観」「多種多様」
(小学館/デジタル大辞泉)
近年、「多様性」の重要性が叫ばれている。私は、この言葉が現代の課題になりつつあると感じている。
多様性の恩恵
多様性は重要だろう。多様性が尊重される世の中において、やっと認められるようになった権利も存在する。
LGBT+については、全ての人が個性を持っていてもよいとする:多様性の考え方から認められるようになりつつある。
考え方や主義なども多様化している。みんなが同じように考えなくてもよいとする:多様性の考え方に基づいて認められている。
多様性が社会に及ぼす良い影響は計り知れない。
Ⅰ.環境にも存在する多様性
原始的にいえば、生物的多様性という言葉がある。たくさんの生物の種が存在することは大切である。一方で、同じ生物の中でもそれぞれの個体に特有の個性が存在する。このことが自然界を支えている。
Ⅱ.文化的の多様性
多様性は文化的な豊かさを守っている。異なるバックボーンを持つ人を尊重したり、互いの文化を認めて交流することで;文化的な豊かさを守ることができるだろう。
「自分たちの文化を守るんだ!」
単にそういうだけではなく、守ることと尊重することを同時に重んじる主張も多様性には含まれている。
このように多様性という言葉の普及を背景に、異文化を尊重する運動を支持することが増えている。極端なことには、民族間などの対立を緩めることなどに効果があるかもしれない。
Ⅲ.違いの尊重が個性的な社会へ
多様性という言葉を通して、一元的に集団を扱うことが難しいと分かった。なぜならば、集団に属するひとりひとりが別々の個体であるからである。個々のことを知り、違いを尊重することが重要だと分かる。このことが、個々の違いを尊重することが根底にある社会になるのである。この社会では、いじめも少なくなるだろう。
Ⅳ.多様性は保証されるべきではない!
そのような多様な価値観が目に見える社会においては、創造的でイノベーティブな活動が増える。従来の凝り固まった考え方では到達できない:多様性を通してのみ見える活動が注目されている。
ここまで聞くと
「多様性は重要だ!!」
「多様性があるからこそ、世界は住みやすいコミュニティになるのだ」
そう信じる人もいるだろう。
しかし、どうだろうか?
私は「多様性」という言葉が一人歩きしているかのようにしか思えない。
現代は、あまりに多様性についての理解が進んでいない。その証左として、多様性を盾に無茶苦茶を押し付ける人がいる。
「こういう考えも存在していいだろう」という言葉に、多様性を理解していない人は反論できないのである。
多様性を盾にした暴論以外にも、偏った価値観や我儘などが許容されるようになりつつある。
脱・多様性
私は言いたい
多様性の理解なくして、多様性は保証されるべきではない。
多様性の理解が不十分なまま社会が発展していけば、個人主義は歪んだ形で存在することになる。その結果コミュニティは崩壊する。
特定の考え方を「多様性を守るために排除する」などというキャンペーンが考え方の多様性を根拠に行われるかもしれない。
多様性の理解なしに社会を発展させてはいけないのである。
LGBT+を守るのは人権の問題意識であり、考え方や思想を守るのは言論・信条の自由である。
これらは決して多様性の問題ではない。
この世の中において、多様性は重要ではない。
重要なのは
沢山の人、意見、考え方:思想信条が協調することである。
繰り返す。多様性は全く重要ではない。重要なのは“協調された”多様性である。
いろいろと種類の違ったものがハーモニーを奏でている。そのことが大切なのだ。
協調された多様性が定着するまで、多様性という言葉を使うべきではない。
多様性の理解なくして、多様性は保証されるべきではない。
Ⅴ.みんなは?
皆さんはどう感じているだろうか?
多様性という言葉を聞いて、たくさんの人や意見、価値観があふれる日常を想像するのではないだろうか?
多くの人はそう感じるであろう。
だからと言って、基準なくすべてを受け入れることはしてはいけない。その先にあるのは崩壊なのだから。
この人は許されてもいい人間なのか?多様性を認める社会だからと言って犯罪は許されない。
この宗教は許されてもいいいのか?多様な考え方が存在するからと言って、信仰を利用して財産を半ば強制的に奪うことは許されない。
この政治家は許されるのか?多様な考え方が存在するからと言って、この国の存続を脅かす言論を政治家はしてはいけないのである。
この記事はどうだろう?「多様性社会」の危うさを警告する記事であるが、特定の意見を封殺しようとする行為は協調的なのだろうか?
正解はない。
考えてみてほしい。