昨今、何かと話題になる「LGBTQ」。「身体は男性であるが心は女性」やその逆、「男女両性ともに性的対象である」、「心が男性か女性かわからない」、更には「男性でも女性でもない」、など様々である。
自分はどれほどLGBTQを理解しているのだろうか?
昨今、話題となっているのが「LGBTQ」である。定義では、「性的指向や性自認が多様である人々の総称」とされている。
このような性自認を持つ人たちに対して、こういった人たちがいるのは至極当然だという認識が当たり前である必要がある。国連はLGBTQへの理解促進のために、同性愛の犯罪指定緩和や権利保護の対策を講じた。しかし、世界では未だに性差別が行われているのが現状である。
性差別はあってはならないことである。誰もが自分と周囲の人を大切にしなければいけない。そのような考え方の変化がおこり、LGBTQの人たちへの理解が近年加速しているのである。
現在問題となっているのは、LGBTQの浸透がよくない方向に進んでいる分野があることである。今回は「LGBTQとスポーツ」に的を絞って考えていきたいと思う。
【Ⅰ】スポーツにおける性別の棲み分け
オリンピックや日本選手権などのスポーツ大会をテレビやSNSで観戦したり、或いは自身が経験したことは誰しもあるだろう。誰にでも身近な存在であるスポーツの基本は「男女別」である。これについては特に問題ないだろう。この区別が存在する理由は、勿論「身体的な能力差がある」からである。
例えば、筆者は陸上競技を経験したことがあるが、一般的に参加することができる大会で「男女混成競技」が行われることはない。基本的に世界大会等でのみ行われる。理由はもちろん「男女の身体能力に覆せない差があるから」だ。男女混成競技といっても、男女の人数は同じであるし、1vs1の勝負ではない。だから、男女の差をちゃんと考慮しているのだ。
さらに、陸上には「障害(ハードル)種目」が設けられている。走りながら障害物(ハードル)を飛んでいく競技だが、ここにも男女の差を考慮したことがある。それは「ハードルの高さ」である。男性よりも女性のほうが筋肉量が少ないとされているため、跳躍力を考慮して女子競技のハードルのほうが低く設定されている。
これらは陸上競技における話だが、他の競技も同じように男女で競技を区分しているのが通例だ。通例や常識にとらわれない、というのは最近のトレンドではあるが、身体的性別の棲み分けがなされてこそ、公平なスポーツが行われるということを忘れてはならない。
【Ⅱ】スポーツとLGBTQの乖離(かいり)を是正する必要性
前章でスポーツにおける男女の区別の重要性について書いた。これらはあって然るべきであるはずだが、近年、この考えが揺らぎ始めている。
私がそれを感じ始めたきっかけとなる記事がある。それは、「陸上競技において、身体が男性であるが心が女性の選手が女子競技に出場して優勝」というものだ。
驚嘆した。
これはたとえ心が女性であろうと、男子選手が女子競技に出ているのとまったく同じではないかと私は考える。幼少期に男児と女児が走るのはまだ理解できる。それは身体的能力の差が小さいからだ。しかし、私が見た記事では間違いなくシニアの競技であった。スポーツにおける男女の公平性は、身体能力差の考慮が前提であった。これがまかり通ってしまえば、スポーツの公平性などは担保されなくなってしまう。
生まれ持った身体の性は変えられない。抗うのは自由だが、心の性と身体の性を履き違えたままにするのはスポーツに対する冒涜(ぼうとく)以外の何物でもない。世界的にLGBTQを理解しようとする姿勢は素晴らしいものだが、他の概念へ乱雑に押し付けて公平性やアイデンティティ、重要な要素を蝕んでいく行為は褒められたものではない。
「LGBTQへの寛容さ」と「スポーツに元来必要とされている、身体的な性を区分することで担保される公平性」に齟齬(そご)が生じ始めているのが現状だと言える。
LGBTQを理解するのは大切な反面、難しいところがある。その例として、LGBTQがマイノリティー(いわゆる少数派)であることが挙げられるだろう。
アメリカの大学の調査によると、アメリカ人の3.8%が性的マイノリティーであるとわかった。また、イギリスの国家統計局によると、イギリス人の約2%(約84万人程度)が性的マイノリティーというデータが得られた。日本では、人口の約10%が性的マイノリティーであるとされている。
このように差はあれども、やはりLGBTQの人たちは少数派なのだとわかる。その少数派の人たちを蔑ろにするのはあってはならないことだ。だからこそ、少数派の人たちを考慮した、柔軟なやり方・思考を生み出し、皆で共有し、先に挙げた二つの乖離を無くしていくことが今のスポーツに求められているはずだ。
【Ⅲ】性的マイノリティーとスポーツを守るために
ここまで、LGBTQとスポーツが生み出す問題点について考えてきた。心と身体の性が異なっているのに、男子競技・女子競技という決められた枠にとらわれるのは形容しがたい不快感が生まれるのだろう。一方で、スポーツにおける公平性を担保するには、身体能力によってどこかでグループ分けをしなければならない。
そういった人たちのために「性的マイノリティーの枠」を設けるのも一つの手だと思う。しかしながら、それは「彼らがそれを望めば」だ。私はそう思う。
男・女に続く第三の性があってもおかしくない世の中であるし、第三にこだわらなければさらに多くの性があるのだ。スポーツがそれを拒むのではなく、寛容に、互いを認め合ってスポーツにLGBTQを浸透させていけばよいのだ。
ただ、ここで再度明言しておくが、それはあくまで「心の性」であって、スポーツの公平性を確実にするために、身体的な性については受け入れて競技に臨むことを徹底するべきだ。
いまや人間にとって欠かせないスポーツという概念を、守るべき考え方は守りながら、柔軟に時代の流れに沿って変えていくことが望ましいはずだ。
この記事を読んだ方は、「LGBTQとスポ-ツ」について深く考えて見てほしい。
大切なのは、「思考を放棄しないこと」だ。