ある時、主婦のクリスチャンの方が相談の電話を掛けてに来られました。ご主人が「もう生きる希望がない。自殺する。」と言うのです。主人の話を聞いてくださいと言うことでした。その頃、わたしは牧師の駆けだしで、その方のご主人がどういう方かも分からず、内心、困りましたが、あまりにも真剣なご相談の姿だったので、断ることも出来ません。 「お会いしますよ」と答えました。

それから、お二人が到着されるまで、ひとり自室でからだを揺するようにして、祈りました「神様。わたしはこの方のご主人に何をお話ししたら良いのでしょう。」いくら何でも自殺を決意している方に、わたしが役に立てるとは思えません。一生懸命考えながら祈っていたとき、5つの聖書のことばが思い出されました。それをメモにして立ち上がったとき、お二人が到着されたのです。

ご主人は韓国の方でした。戦後、日本に来られて韓国との貿易や小さい事業をいとなんておられました。韓国製の乾電池が安価に作れて、日本で売れると利益が大きいと言うことに気がついて、当時1000万円の借金をしてこの事業に投入したのだそうです。ところが、思うようにいかず、借金しか残らなかった為、もう、自殺しか道がないと考えられたのでした。

わたしはこの方に、お金を神様のように頼りにした生き方よりも、真の神様を信頼して生きることが大事だと言うことをお話ししました。しかし、私たちは神に背いた心で生きているので、いろいろな罪を背負っていて、自殺したら楽になるかというと、その先には神の裁きが待っているから、自殺はかえって苦しみを増すことになる。いま、出来ることは罪を悔い改めて、神様を心に受け入れることです。・・・とお話ししたのです。

ご主人は、自分の金で何をしても罪ではない。キャバレーで女のおしりを追いかけてどこが罪ですか。自分には罪はない。と断言されました。

わたしは、困りましたが、先ほどメモした聖書の言葉を思い出して順番に読んでいただきました。すると、ご主人は「自分は自己中心な男でした」と言うのです。聖書の言葉を開いて読むうちに、号泣し始めました。「自分は神など考えず、自分勝手なことをしてきました。」と言って泣くのです。

その後、ご主人は自分の生き方は罪に満ちたものだったと認められました。そこで、わたしは聖書の中に書かれているとおり、イエス・キリストは神の御子でしたが、私たちの罪を担って十字架について死んでくださったことをお話ししました。ご主人はイエス・キリストが自分の罪の為に死んでくださり、自分の罪は赦されていることを受け入れました。

その後、涙も涸れて笑顔が戻りました。さすがに、「もう死んでも大丈夫」とは言いませんでした。但し、借金を返すために借金をすると言いますので、「それは神様の道ではない。神に信頼して借金は二度とせず、この危機を乗り越えましょう」と励ました。

その日の夜、珍しい電話があったそうです。ご主人の事業の在庫品が倉庫に眠っていましたが、それを全部買い取りたいというお客さんからの電話だったのです。ご主人はびっくり仰天しました。しかし、神様を信じて借金をせずに危機を乗り越える第一歩が始まったのです。

それからもう30年になります。奥様はなくなられ、ご本人もご高齢になられましたが、今も借金せずに、ご自分の特技を活かした事業をしておられます。。イエス・キリストの十字架の赦しはすべての人に通用します。そして、神様は、真実な祈りを無にされません。素晴らしい人生がそこにあるのですね。

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私が宇都宮で伝道していた頃、殺人教唆という罪で逮捕され、黒羽刑務所に投獄された年上の囚人の方を訪問したことがあります。この方は人に猟銃で撃たれ、数十カ所の散弾を全身にうけました。銃弾の摘出はできましたが、眼球を回復することは出来ず、その恨みを返すために、殺人を人に頼んだので、罪に問われた訳です。私は当時30前の若造で、とてもこのような人生の重大問題を担う方に面会できるような、人生経験もなく資格もない者でしたが、何故かご家族の信頼を受けて、刑務所に面談してほしいと訴えられ、お訪ねしたのでした。はっきり言ってどう対応して良いか分からないまま、一回目の訪問をしました。刑務官の方が面談内容を一部始終筆記され、私もしどろもどろな話。彼の方は「無罪です」と声高に繰り返す。このような事で、刑務官には囚人の無罪を強調させただけの面談と受けられ、悪い印象を残しました。

2度目に訪問したときは、私の気持ちは面談拒否されるのではないかとビクビクしていました。待合室で呼ばれるまで、ひたすら祈っていました。すると、「まだいのちがある」(使徒20:10)の聖書のことばが心に感じました。言葉を感じるというのは妙な言い方ですが、感じたのです。直後に刑務所の奥から、カツーンカツーンと靴音高く数名の刑務官の足音が聞こえました。課長という方と護衛の方3名が出てこられ、丁寧ながらも高圧的に「当所にも牧師はおりますので、外部の牧師は不要です。お引き取り下さい」とのことでした。反抗出来ない空気がみなぎっていました。気の小さい私ですので、すごすごと引き返すのが目に見えていました。

ところが「いのちはまだある」と感じたことばが、心に留まり、青二才の私が、その刑務課長に口答えしたのです。「わたしはこの囚人の方に、ご家族からの依頼を受けてきました。また、神のことばを伝えるためにきました。どうしてもお会いしなければなりません。どうぞ、会わせて下さい」というようなことを言いましたら、居丈高の刑務課長さんが急に腰をかがめるようにして、私を受け入れ、自ら面会所に先導してご案内下さったのです。まるで、イエス様が私の前を歩いておられるようでした。

その日の面会は、囚人の方の心に深く感じるものがあったらしく、彼は二度と無罪を叫ばなくなったそうです。ご家族も、効果ある面会だったと大変喜んで下さいました。それを最後に私は、転任を迎え、次の機会はありませんでした。

このブログは、教会の出来事を通して、喜びや悲しみや、悩みや祈りを、みなさまと分かち合えたらいいなぁと思って、ありのままの気持ちをつづっていきたいと思います。しかし、教会って、ホントにいいとこですねチューリップ赤


5月に不思議な写真が撮れました。沢山の牧師さん方と一緒に並んで写真を撮ったのです。タイマーを忘れてシャッターを押したので、自分が入りそこない、わたしの席は空席で写りました。あわてて、タイマーをセットしてシャッターを押し、自分もみなさんの仲間入りをしました。この間30秒ぐらいの差でした。ところがこの2枚の写真に大きい変化があるのです。空席の写真はふつうなのですが、私が入った写真は不思議な光が中央上部に輝いているのです。それとは別に天井に白熱電灯がいくつか光っています。しかし、もっと下の方で、一同の頭上部に白球が輝き、白熱灯より2倍くらい明るいのです。肉眼では何も見えませんでしたが、何かの波長がデジタルカメラに捕らえられたわけです。サイズは天井の電灯より一回り大きいぐらいのものです。

このような現象について、何の解釈もできませんが、一枚目と二枚目のカメラの角度は全く同じですので、レンズの反射では決してありません。このような写真が5月~6月に何度も撮れました。私自身に関係があるのか、神を信じる大勢の人々に関係があるのか分かりません。しかし、肉眼では見えなくても、その波長は光としてレンズに捕らえらる何かものかが、確かに存在していたと理解しています。その時の人々の心は、とても満たされた気持ちで一杯でした。

いつもそのような気持ちでいたいと、思っています。