『日本数寄』(松岡正剛)。
文中にもありますように、入院生活を迎える或は入院中にこの手の本を読まれる方、どれだけいらっしゃるでしょうか。
その当時の記述を活かしつつ、加筆・修正し、アップさせていただきます。
「寂侘数寄」
入院3日目の朝。
本書のタイトルは、いかにも松岡氏の趣向を感じるタイトル。
数寄とは「何かで何かを漉(す)く」ことをいう(P371)。
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何かと何かというのは、何でもよい。
人であってもいいし、物であってもいい。
物語であっても、事態や景色であってもいい。
ただし、その「漉く」ということが「透(す)く」でもあり、「鋤(す)く」でも「剥(す)く」であっても、また「好く」なのである。
(P371)
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図書館で「にほんすき」という音だけで探していただいたとき、「日本好き」とメモ書きされました。
さもありなん、と思いました。
少し、笑い話的ではありますが。
編集文化数寄の項には、以下の数寄が取り上げられています。
こんなにもあるものか、と思うと同時に色んな数寄があっていいのだ、とも感じました。
1、趣向数寄
2、編集数寄
3、連歌数寄
4、日本数寄(本書のタイトルにもなっています)
5、端限数寄
6、寂侘数寄
その六番目の寂侘数寄に「ちょっとミニ知識」のような記述がありましたので、ご紹介したいと思います。
そうした席でさりげなく話すのもいいかも。
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古い茶会記では「数寄」とあれば茶事のことを、「振舞」とあれば会席料理のことをさしている。
永禄期の『分類草人木』には「このごろの茶の湯を数寄というのは数を寄せるからなのだ」という、ふるった説明もある。
数というのは物数で、つまり名物の数のことである。
こういうわけで、近世初期では茶の湯で「数寄」といえば物持ちの茶の湯のことをさし、「数寄者」といえば名物の所有者をさしていたのであるが、ちょっと奇妙なのは侘数寄である。
なぜなら当時の「侘び」は道具をもっていなかった茶人をさす言葉であり、その「無一物の侘び」と「物持ちの数寄」が一緒の言葉になるのは、ほんとうは変なことであるからだ。
しかし、それが変にはならなくなっていくところに、数寄と侘びとの隠れた歴史の妙がある。
(P292)
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冒頭の『吉右衛門の梅』では、自宅にあった梅の木から万葉集では梅が王者であったことに話が及ぶなど、いつものことながら松岡ワールドに引き込まれてしまいました。
表現を変えながら、「編集」とは何ぞや、と説明しているくだりは、目からウロコです。
たとえば、以下のくだり。
それをご紹介し、まとめとします。
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編集とは、この「端」に着目し、そこに先端の気配を求めつつ、これをさまざまな他端につなげていくことをいう。
(P286)
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それをふくらませてこう言います。
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編集はこのように、「端」や「際」や「限」を重視して事柄や事態の推移を見ていくこと、またそこに事柄や事態の進捗の「合わせ目」や「透かし目」があることを明らかにする。
(P292)
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本書は今朝起きて、朝食をはさんで読み終えました。
そういえば今日はかつて成人の日だったんだよなあ。
(2012・1・15読了)
(私は文庫化前の本書で拝読しました。)
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(「連塾 方法日本Ⅱ」は本書を拝読する前に、読了しておりました。)
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