『物質と記憶-身体と精神の関係についての試論-』(ベルクソン)。
「身体と精神の関係についての試論」。
この論考は『新訳ベルクソン全集2』に所収の論考。
旧訳で刊行されていますが、この全集の論考を読み通したい、そんな思いで本書を含めて、全7巻を読み進めようと思っています。
まず、本書(付録・注記を除いて、本文335頁)の目次をリストしておきます。
あらかじめ、提示しておくと、どの辺りの話かつかめると思いますので。
しかし、読了後、本書は一回の通読ではなかなか理解しがたいとも感じました。
なので、本投稿は備忘録的になっていることを了とされたく存じます(理解の度合いがいささか、心もとないこともありますので。)。
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《序言(1896年)》
《第七版への序言(1911年)》
1・表象のためのイメージの選択について-身体の役割
2・イメージの再認について-記憶と大脳
3・イメージの存続について-記憶と精神
4・イメージの限定と固定について-知覚と物質 こころとからだ
《要約と結論》
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こうした「古典」については、解説あるいは監修されているもののほうが、そこを手繰っていけば理解はしやすいかと思いましたが、あえてそうした解説や監修されていない全集を選び、門外漢ながら全集全巻に挑戦しようという試み、と言う方が当たっているかもしれない。
独特の用語が出てきますので、「その用語の意味するところは?」と振り返ったり、「注記」などを手繰っていると、なかなか前へ進む推進力が弱い。
その辺がしっかり肚に落ちているかと言われれば、心もとない状況。
咀嚼不足の部分は、以前ご紹介した『観の目』を表された渡仲幸利氏のように、ずっと愛読書とするほど、読み返すことは必要であろうと感じます。
この『物質と記憶』の論考の出発点は、先に目次としてあげた、第3章で用いられている分析と、ベルクソン本人が「序言」の冒頭で述べています。
その第3章で論証しているのは、「想起という明確な実例に基づくいて、同じ一つの精神現象には、相互に異なった多くの意識平面が同時に関与し、それらの意識平面は夢と行動との間に見出されるというあらゆる階梯をしるしつづけているということであり、これらの意識平面のうち最後の平面において、さらに言えば最後の平面においてのみ、身体が介入してくる」(P2)、と。
これだけでは、前提となる知識なしで読むと、「何のこと?」となってしまいます。
その第3章の冒頭で、第2章までの内容を手身近にまとめる、としていますので、少し長い引用になりますが、記録しておきたいと思います。
ここに出てくる、「純粋想起」などのワードがキーとなっているのは、想像に難くありません。
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われわれは三つの事項を区別した。
純粋想起、イメージ=想起、そして知覚である。
これら三項のどれ一つとして、事実においては、個々別々に現れてくるものではない。
知覚は、決して、精神が単に眼前の事物と触れ合うことではない。
知覚はさまざまなイメージ=想起群に身ぐるみ浸透されている。
それらのイメージ=想起群は、知覚を解釈することで知覚を補完している。
そのイメージ=想起そのものも、「純粋想起」と知覚と分有しており、純粋想起が物質化する端緒となっているし、知覚はイメージ=想起が受肉してゆく場所なのだ。
この後者の視点から見れば、イメージ=想起とは発生状態にある知覚である、と定義できるかもしれない。
最後に純粋想起であるが、<純粋という語の>定義からすればあるいは一個独立したものに見えるかもしれないが、それが実際に姿を現してくるのは、通常、何らかの<個性的>色調を帯び、生き生きと活動してくるイメージとしてであり、それであってこそ、純粋想起の存在も知られるのである。
(P181)
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これだけ読むと、第2章までは、この論考で主張したい論点へたどり着くための助走のような気がします。
そして、3つのワード、すなわち、「純粋想起、イメージ=想起、知覚」がキーとなってくるのが、おぼろげながらわかってきます。
そして、第3章で気になった記述を2つご紹介します。
この2つの記述には考えさせられました。
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あなたは現在というものを現在時点で存在しているものであると恣意的に定義しているけれども、現在とは、単に現在時点で自ら生成しているものなのである。
(P205)
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自らの人生を、現実に生きるのではなく、夢想する人は、おそらくはそれと同じように、自分の眼下にいつも、彼の過ぎにし人生の限りない場面を見続けているのであろう。
そして、それとは反対に、自分の過去の記憶を、その記憶が生み出した事柄も含めてそのすべてを、嫌悪する人は、自らの人生をありのままに表象することなく、絶えずそれを演じているだけなのであろう。
(P212)
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また、第4章には本書で試みている考察の中で、物質理論の構築の概略的なポイントをいくつかリストしていますので、引用いたします。
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1・休止から休止に至る通過としての運動は、すべて絶対的に分割不可能である。
2・現実の運動は存在する。
3・絶対的に限定された輪郭をもつ個別の物体群に物質世界を分割するのは、ことごとく、人為的分割である。
4・現実の運動は、事物の変異というよりは、状態の変異である。
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そして、第4章をこうまとめます。
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過去は物質によって<現在において>演じられているが、精神によっては<想起という形で>イメージ化されている、と。
(P302)
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本書の「要約と結語」の部分の冒頭と掉尾を飾る言葉を引き、まとめにかえたいと思います。
そこに、本書のタイトルを「物質と記憶」そしてサブタイトルでもある「身体と精神の関係についての試論」としたヒントがあるのではないか、と感じました。
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われわれの身体は行動のための道具であり、さらに言えば、行動のためだけの道具である、ということである。
(P303)
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物質からさまざまな知覚を借りながら、精神はそこから自らの生きる糧を引き出し、さらに運動という形で物質にそれらの知覚を返している。
そこに精神が刻みこんできたのは、自らの自由である。
(P335)
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3つのワード、すなわち、「純粋想起、イメージ=想起、知覚」を軸に置きつつ、あらためて読み直してみたく、思いました。
少し、歯ごたえがありすぎたかな、というイメージです。
読みずらいところが多々あり、たいへん、失礼いたしました。
もっと、精進せなあかんなあ、と感じた次第です。
再読必至の一冊です。
(2018・5・3読了)
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