★キューバ伝説の世界王者キッド・チョコレート/〈復刻再編集版〉 | ◆ ボクシングを愛する猫パンチ男のブログ ◆

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キューバ伝説の世界王者キッド・チョコレート!

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1927年後半から1938年後半にかけニックネーム(愛称)ではなく、正式リングネームとしてキッド・チョコレート(小型のチョコレート)の名で当時ボクシングの聖地だった米ニューヨーク市マンハッタンにあるマディソン・スクエア・ガーデンのリングに上がり大活躍していたキューバ人初の世界王者がいました。
本名はセルヒオ・エリージョ・サルディーニャス・モンタルボ(Sergio eligio sardinias montalbo)というちょっと長〜い名前なのでした。当時、熱狂的ボクシングファンの多かったニューヨーカーに長い本名は向かず、早く名前を覚えて貰うことが狙いで当時のプロモーターが付けたとされています。しかし、なぜ甘い食べ物がリングネームとなったのかは諸説あるものの当時初めてモンタルボの試合を観たニューヨークのファンが「なんて、チョコレート肌したボクサーなんだ!」と叫んだことが新聞記事で紹介され、それがそのままリングネームになったとする説もあるようです。
当時、ミドル級以下の階級は注目度が低かったとされた時代に軽量級で突如として人気が出始めてマディソン・スクエア・ガーデンをメイン会場として使用できる地位まで昇格していた。知名度が上がると各州からのお呼びもかかったようで転戦も行なっています。
そして、活躍が海外にも知れ渡るとヨーロッパ(スペインとフランス)や隣国のカナダでもリングに上がっていました。
その後、いつの日からかニックネームもキューバン・ボンボン(キューバの砂糖菓子)とこれも甘~い愛称が付けられ、むしろこちらのほうが親しまれたようです。

母国キューバでのモンタルボ少年(後のキッド・チョコレート)は12歳頃スラム街に住み食事も満足に出来ないほど貧しかったことで家族を助ける為に新聞配達を始めたのでした。
15歳となった頃に販売所では新聞紙を脇に抱えながら坂道を苦にせず 配達するスピードが他の少年よりずば抜けて速く忍耐力に加え運動神経のいいモンタルボ少年は街中で評判となります。
それを人伝てに聞いたその配達する新聞社のスポーツ論説委員が販売所に出向いてモンタルボに「援助するからボクシングを習ってみる気はないか!」と勧められるとモンタルボ少年は躊躇することなく勧めに応じる。早速、国営のスポーツセンターでアマチュアボクシングを習い始めると元々運動神経が良かったことに加え耐久力も備わっていたことでたちまち頭角を現すのでした。
キューバ各地で行われる大会に出場すると連戦連勝の負け知らずでキューバ中の評判となったのです。そして、なんとアマチュア戦績100戦全勝(86RSC・KO)無敗という途轍もない戦績を積み上げます。まず地元の小規模大会からスタートして規模の大きい州大会まで含めると数多くの優勝を飾ったとされています。
※(優勝回数は20度説と22度説があるが定かではない)
活躍したアマチュア時代の1926年代は既に国際大会も開催され出場も期待されていたが、キューバ国内のクーデターが度々起きた混乱で情勢も悪く出場機会はなかったという。
しかし、そんなモンタルボという若き逸材をプロボクシング界が放って置くはずもなかった。17歳となったモンタルボはプロ勧誘を受けて契約書にサインするとアマチュア100戦無敗の戦績を引っ提げ、1927年10月22日、地元ハバナでジョニー・クルズ(キューバ)と6回戦を契約体重(体重不明)で戦い6回判定勝ち(採点不明)のプロデビュー戦を飾ったのでした。
その後、モンタルボは1928年6月、9戦全勝(6KO)無敗の戦績を上げて18歳となった時期、アマチュア時代の輝かしい実績も含め関係者を通じて本場米国のプロモーターに評判が伝わり勧誘されると米国本土で活動する契約が結ばれ成立となった。
当時のキューバは混乱期にあったが、まだ米国との友好関係の名残りもあったようで渡航禁止などはなく、敢えて亡命することはなかったと記されている。モンタルボはトレーナーらとともにキューバを後にニューヨークへと渡ることになった。

新聞少年時代から5年で栄光を掴んだ!

米国に渡ったモンタルボは1928年7月11日、ニューヨーク市近郊ミネオラのミッチェル・フィールド・アリーナでフェザー級8回戦をエディー・エノス(米国)と戦い3回TKO勝ちで米国デビュー戦を飾った。この時点でプロ10戦全勝(7KO)無敗。
その後は連勝していた1928年11月30日、バンタム級10回戦でジョーイ・スカルファロ(米国)と戦い引き分けに終わり連勝は22で途切れた。しかし、それから再び33連勝を記録した。
初黒星は1930年7月15日、130ポンド契約(58.96kg)でジャック・キッド・ベルグ(英国)と戦い57戦目で10回スプリットによる1ー2の判定負けだった。
ニューヨーク州が活動拠点の場となりリングネームもキッド・チョコレートとなってから1930年11月3日時点で60戦57勝(32KO)2敗1分のキャリアを積み上げていました。プロデビューからわずか3年あまりでこれだけの試合数をこなすには月に1.66試合を戦っていた計算となり、現在では到底考えられない試合数です。初の大一番となった1930年12月12日、NBA(現WBA)&NYSAC(ニューヨーク州アスレチック・コミッション公認)世界フェザー級王者バトリン・バタリノ(米国)への世界初挑戦だったが、15回7ー8(支配したラウンドを1ポイント計算)の僅差判定負けで王座獲得はならなかった。
しかし、翌1931年7月15日、階級を上げて2階級制覇王者でNBA公認世界Jライト級(現Sフェザー級)王者ベニー・バス(ウクライナ/米国)へ2度目となる世界挑戦で7回TKO勝ちを収めて見事念願の王座獲得に成功したのだった。
公式認定団体ではキューバ人初の世界王者誕生となった。
そして、新聞少年時代からわずか5年たらずでの栄光でした。

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(Photos by boxrec.com)

キッド・チョコレートは王者となってその名は一躍全米に広まり母国キューバへも知れ渡ることになった。
1931年10月1日、NBA世界Jライト級王座をジョーイ・スコールファロ(米国)の挑戦を受け戦うと、わずか初回TKO勝ちで初防衛に成功。
1931年11月20日、試合間隔2カ月満たない中でJライト級王座を保持したまま階級を上げ、当時人気スター選手だったNBA世界ライト級&Lウェルター級(現Sライト級)の2階級保持王者トニー・カンゾネリ(米国)へ挑戦するとお互い引かない激闘を繰り広げた末に15回1ー2の僅差判定負けで王座獲得はならなかった。※この試合は名勝負としてボクシング史に刻まれている。

カンゾネリVS.チョコレート戦(4分14秒)


1932年4月10日、再起して2連勝後、保持していたNBA世界Jライト級王座をデビー・アバド(米国)と戦い15回判定勝ちで2度目の防衛に成功。この後は半年の間に7度のリングで6勝1敗となっているが王座防衛失敗なのか剥奪なのかそれともノンタイトル戦だったのかは記載がなく不明。
1932年10月13日、NYSAC(ニューヨーク州アスレチック公認)世界フェザー級王座戦&Jライト級(現Sフェザー級)王座決定戦をルー・フェルドマン(米国)と戦い12回KO勝ちで両王座を獲得するとともに2階級制覇を達成。
※(注)この時代は2階級ダブルでタイトルが懸けられることは珍しくなかったようです。
キッドチョコレートは2階級王座獲得でニューヨークでの人気をさらに高め不動のものとした。両王座の初防衛に成功した後、1933年11月24日、ライト級ノンタイトル10回戦で2年前に戦って判定負けしたトニー・カンゾネリとの再戦でリベンジを狙って臨んだが、キャリア初の2回KO負けを喫してしまう。
再起に成功して1カ月の間に2試合目となった1933年12月25日、保持していたNYSAC公認世界Jライト級(現SFe級)王座4度目の防衛戦でフランキー・クリック(米国)にまさかの7回TKO負けで王座から陥落して無冠となってしまった。
その後は再起して5勝2分とした。

無冠となったキッドチョコレートは母国キューバやベネズエラで転戦しながら王座返り咲きを目指していたものの、なかなか世界戦に恵まれず、格下相手にグローブを交える試合が長く続いた。
1937年8月19日、ニューヨーク市マンハッタンのマディソン・スクエア・ガーデンでフェザー級10回戦をジョニー・デフォー(米国)と戦い判定勝ちを収める。
ここまで147戦132勝(50KO)10敗5分の戦績を積み上げたが、世界挑戦へのチャンスは巡ってこなかった。
そして、この試合を最後に7年もの長い間、主戦場としてきた第二の故郷とも言えるニューヨーク市から母国キューバへと帰国することになります。その後、故郷に戻ったキッドチョコレートは現役を続けて地元ハバナのリングで4連勝した後、1938年12月18日、同じハバナ市のリングでフェザー級10回戦をニッキー・ジェローム(キューバ)と戦い引き分けに終わると体力の限界を悟ってこの試合を最後に惜しまれつつ現役を退いたのでした。
プロ戦績152戦136勝(51KO)10敗6分という素晴らしい戦績を残しての引退だった。

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(Photos by pinterest.com)

〈キッド・チョコレートMEMO〉
本名:セルヒオ・エリージョ・サルディーニャス・モンタルボ
生年月日:1910年1月6日
ニックネーム:キューバン・ボンボン(キューバの砂糖菓子)
出身地:キューバ共和国ラ・アバーナ州ハバナ市セロ地区
死没日:1988年8月8日、地元ハバナ市で死去。(享年78歳)
対戦階級:フェザー級・Sフェザー級・ライト級
プロデビュー:1927年10月22日
ラストファイト:1938年12月18日
身長/リーチ:168cm/165cm
スタイル:右・ボクサーファイター

【プロ戦績】
★152戦136勝(51KO)10敗6分
【アマ戦績】
★100戦全勝(86RSC・KO)無敗


〈獲得タイトル〉
★NBA(現WBA)世界Jライト級(現Sフェザー級)王座。(防衛3度)
★NYSAC(ニューヨーク州公認)世界Jライト級王座。(防衛3度)
★NYSAC(ニューヨーク州公認)世界フェザー級王座。(防衛2度)

NYSAC(New York State Athletic Commission=ニューヨーク州運動委員会)とは1920年代初頭にマフィアや、ならず者が介在した怪しい団体が乱立した時代でそれを一掃する為に、ニューヨーク州で当時のプロボクシングとプロレスリングの王座&試合認定を統括する団体として発足、設立された。
当然、現在の主要4団体より古い老舗団体で最近は王座認定などは行わず、主にニューヨーク州内での試合を認定するのみの州コミッション団体として現在も存在している。

キッド・チョコレートのボクシングスタイルはオーソドックスで軽快なフットワークから鋭い左ジャブを繰り出し接近すると回転力ある左右で上下に攻める極めてコンビネーションに優れた選手でした。強打者ではなかったが、スピードとテクニックに加えパンチを躱す柔軟性に優れ152戦してわずかに10敗。しかも、KO負けはストップによるTKO負けの1度と完全なKO負けは1度しかなく打たれ強くタフだったのです。また、判定負けの8度のうち3度はスプリット判定による微妙な僅差負けでした。
そのキッドチョコレートのテクニックを駆使した戦いぶりは後にアメリカのボクシング史に残る伝説的ボクサーとなった2階級制覇王者(ウェルター級&ミドル級)のシュガー・レイ・ロビンソン(米国)でさえ彼を絶賛し褒め称えたといいます。

(キッドチョコレート激闘ぶりの映像約2分)


(チョコレートを絶賛した名王者ロビンソン)


政変で人生を狂わされた英雄キッドチョコレート!

引退したキッド・チョコレートはその後、異国で偉大な功績を残したことで国民の老若男女に慕われキューバ・スポーツ協会のボクシング部門で名誉会員として招かれ若い選手や子供達の指導者として従事しながら余生を送っていました。
しかし、キューバ革命(1953年7月~1959年1月)が起こるとやがて共和国制国家からカストロ社会主義政権国家となって資本主義者の一斉排除が始まり、1961年3月からはスポーツ選手のプロ活動などは全面禁止される時代へと突入していった。
そして1962年、ソ連と軍事協定を結んだキューバは米国と敵対して核戦争一歩手前まで発展した。(所謂キューバ危機と呼ばれる)
当時のキッド・チョコレートに対しては敵対国となったアメリカで長い間プロ活動で生活していたことや前政権の政治家との交流があったことなどを理由に資本主義者(キャピタリスト)のレッテルを貼られ指導者としての職も解かれたうえに一部の財産を没収されるなどの弾圧を受けました。
そして、晩年は家族とも生き別れ状態で音信不通となり不遇な生活を余儀なくされたと伝えられています。

キッド・チョコレートはまさしく政治変動によって言われなき不当な弾圧を受けたひとりだったのです。

(奥トレーナー姿が指導者時代のチョコレート)
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(キッドチョコレート75歳頃の写真とされる)
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(PHOTOS BY MARTINE BARRAT)

いまでこそ、アメリカでキューバ人選手が活躍していますが、キッド・チョコレートはキューバ人として初めて世界王者となりアメリカの地に活躍の場を切り開いてくれた大功労者だったのです。
そんなキッド・チョコレートは1988年8月8日、地元ハバナ市内の病院で永遠の眠りについたのでした。享年78歳でした。

85年以上も前の選手ながら、キッド・チョコレートの名は今なお出身地ハバナ市の誇り高き英雄として称えられています。

1991年・国際ボクシング名誉の殿堂博物館入り。
1994年・世界ボクシング殿堂入り。

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