《訃報!あのモハメド・アリを破ったジョー・フレージャー氏 肺がんで死去》No.236 | ◆ ボクシングを愛する猫パンチ男のブログ ◆

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元ヘビー級王者ジョー・フレージャー氏が死去!



あのモハメド・アリを初めて敗北に追いやった元WBA・WBC世界ヘビー級統一王者のジョー・フレージャー氏が肺がんのため11月7日死去した。(享年67歳)
現役時代は前進するのみを信条に勝負を絶対諦めないことから、ニックネームが人間機関車「スモーキン・ジョー」と呼ばれて玄人好みする選手だった。

(在りし日のJ・フレージャー氏)
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1970年代プロボクシングで最も人気があり、ヘビー級のスーパースターだったモハメド・アリと死闘を演じたジョー・フレージャー。
1971年3月8日、元王者のモハメド・アリはベトナム戦争の徴兵を拒否して王座を剥奪され3年7ヶ月も試合から遠ざかっていた。
試合禁止を解かれて復帰後2試合(2KO)勝利して王座返り咲きを狙って、王者のジョー・フレージャーへ挑戦することとなった。
当時、「世紀の一戦」として注目されたが、巷のファンやスポーツ紙は大方モハメド・アリの一方的勝利で終わるだろうと予想していた。
その時のモハメド・アリの戦績は31戦31勝(25KO)無敗であり、フレージャーも見劣りしない26戦26勝(23KO)無敗の無敗同士対決である。
会場のマジソン・スクエア・ガーデンは満員札止めとなった。

しかし、いざ蓋を開けて見るとフレージャーの左右強打とフットワークでアリを翻弄。
7回にはフレージャーの左右フックでアリは倒される寸前まで追い込まれる。
アリはなんとか持ちこたえたものの、最終ラウンドの15回(当時は15回制)に左フックでダウンを奪って、KO勝ちこそ逃したものの、フレージャーの圧倒勝利だった。
そして、この年の、年間最優秀ボクサー、年間最高試合、ベストラウンドの各賞を総舐めにした。

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アリとの2度目の対戦は1974年1月28日、初対戦時と同じ、思い出の会場マジソン・スクエア・ガーデンで開催された。
フレージャーは前年の1973年1月22日、ジョージ・フォアマンと対戦し2回KO負けして、王座を明け渡し無冠だった。
世界挑戦権の位置にある北米王座を賭けて同じく無冠のアリとのリターンマッチは12回戦で行われ、お互い譲らない出入りの激しい打ち合いとなり拮抗した試合だったが、アリの僅差判定勝ちで借りを返される形となった。

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☆世に語り継がれる伝説的試合☆

3度目の対戦は、1975年10月1日、フィリピンのマニラで「スリラー・イン・マニラ」と銘打って行われ世界中が注目した。

アリが序盤から左ジャブ、ワンツーで流れを掴んだ。
しかし、中盤あたりからフレージャーも左右フックで反撃して、稀に見る打ち合いとなった。
後半戦の13回、14回とアリのワンツー連打を浴びてもフレージャーは執念で諦めない。
14回終了してコーナーに戻ってセコンドの指差す本数を数えられない程に疲労困ぱいしていた。
そして、左目は殆んど見えていないことを察知した。
陣営は「もう、これ以上続行すれば命にかかわる!」と、試合を諦めようとしないフレージャーを説得して棄権させて終了した。

この時、14回ストップ勝ちしたアリもコーナーに戻ると「もう、体が動かない!グローブを脱がせてくれ!」と負けを覚悟で訴えていた。
それ程、両選手は疲労困ぱいを通り越した壮絶な打ち合いを展開したのだった。
そして、打たれても諦めず勇敢に戦い続けたフレージャーに称賛の声が上がった。
フレージャーだったからこそ歴史に遺る名勝負になったと・・・
それは、今でも語りぐさになっている。

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ジョー・フレージャーは現役時代からおごらず高ぶらずを押し通した紳士的人物であったらしい。
確かに、モハメド・アリやジョージ・フォアマンと当代随一の人気ボクサーと複数回グローブを交えた割には名前は出るが、写真の数は少なかったようだった。
ボクシングファンも名前は知っているが、どんな風貌で、どんなキャラクターの持ち主かもあまり表に出てこなかった。
15年も前の専門誌を引っ張り出して読んでみた。
そこには、ボクサーになった経緯が書かれている。
そもそものきっかけは、太る体質で十代の後半に痩せる目的でジムに通うようになって、何時の間にかボクシングの魅力に取りつかれていったという。
そして、あれよあれよと云う間に全米トップアマチュアに登りつめてオリンピック代表に。
東京オリンピックでは二番手の控え選手ながら、第一代表のバスター・マシスという選手が怪我で出場できなくなって出番が訪れる。
ここで、見事に代役出場での金メダル獲得となった。

ある日の専門誌のコメント「僕は、あの時、二番手の補欠からスタートしたが、いつでも与えられた要求に全う出来るよう準備を積んでいた。プロになってからは、それ以上に努力するしかなかった。二番手であっても必ずトップに登りつめられると信じることが大事なんだ!」フレージャーのこのコメントがなんとなく派手を嫌う地味で控えめな性格を表しているように思えた。
だから、あえてメディアにも自らしゃしゃり出ることがなかったに違いない。

後輩の若いプロボクサーのお手本でもあったジョー・フレージャー氏は、マイク・タイソンが問題ばかり起こしていた時代に叱りつけたと云う「君は、誰のお陰でプロの道を生きてるんだ。家族や友人、そして、第一にファンが君を支えて来たんだろ。みんなを裏切るならボクシング界から去ってくれ!」と・・・
グローブを置いても若い選手達の社会道徳にもアドバイスを忘れなかった。
そして、元ボクサーとは思えないほど一言一言に重みがあり、私生活でも紳士であり続けたという。

〈ジョー・フレージャーMEMO〉
本名:ジョセフ・ウィリアム・フレージャー
生年月日:1944年1月12日
国籍:アメリカ合衆国
出身地:サウスカロライナ州ビューフォート
ニックネーム:スモーキン・ジョー(機関車のような突進力)
階級:ヘビー級
身長/リーチ:182cm/187cm(ヘビー級では小柄だった)
スタイル:オーソドックス
得意パンチ:左フック
プロデビュー:1965年8月16日、ウーディ・ゴスと6回戦で1回1分42秒でのTKO勝ち。
戦績:37戦32勝(27KO)4敗1分
※負けの4敗はジョージ・フォアマンに2敗。
モハメド・アリに2敗。
〈獲得タイトル〉
WBA&WBC世界ヘビー級王座(ともに4度防衛)
〈アマチュア時代〉
1964年の東京オリンピックに代役出場でヘビー級金メダルを獲得した。

モハメド・アリやジョージ・フォアマンと名勝負をボクシング史に遺し67歳で逝ってしまった「スモーキン・ジョー」は天に召されるのはまだ早過ぎた。
世界中のボクシングファンを魅了したジョー・フレージャー氏に心からご冥福をお祈りします。
安らかに・・・


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