本質について考える。
なぜ、みな、本質をみないのか。
したり顔の浅い浅い空論が多いのは何故か。
極めてシンプルなことが、なぜゆがんで着地するのか。
絶対的な本質、絶対的な真理は、必ず存在すると思っている。
本質を見極める眼力を究極まで鍛え、
真冬の夜の空気みたいにピンピンに研ぎ澄まさなくてはならない
と思っている。
どんなときでも本質を徹底的に探し本質を見据えるその姿勢が、
その人自身の説得力であり、決してブレない軸となり、
それが変化を許容する勇気を生み、負けない自分を形作り、
そして人間の器になっていくんだと強く信じている。
しかし。
しかしだ。
観念の世界において、
認知し得ないものは存在しないとするならば、
究極の真理が例えそこに泰然として存在していたとしても、
自分が見たいように見ている、オレの思う本質しか感じることができず、
絶対的な真理を自分なりにしか認知しえない限りにおいては、
そこに絶対的な本質は存在していないことになる。
世の中のいろんな人がいろんな立場から、
その人なりの眼鏡でみて、自分的にそうであって欲しいと思う、
ゆがめられた本質の総和のことを、
ただ本質と呼んでいるだけというのか。
真の本質に誰も触れられない以上、絶対的な本質は存在しえない。
目の前にあるというのに。
あるものはない。
ないという事実がある。
それでも、
絶対的な本質は明らかに存在すると思う。