母はもう居ない
私と、妹が知っているかつての母は居なくなってしまった…。
いま居るのは、もう喋ることもできず、一日中うな垂れ、夜は呻き、身体中に傷をこしらえている哀れな老女。
妹はおろか、一番身近にいる私すら誰だか、何だか分からず、口に匙を運ぼうとすると激しく首を振る老女。
顔を拭いてあげようとすると、身もだえ、握りしめた右手の拳で力なく叩こうと抗う老女。
昨日は痛みからなのか感情失禁なのか、顔中を口にして涙をぼろぼろこぼして泣き出した老女…私の母。
これが私のあの母親なのか?
もしかして狐でも化けて、途中で入れ替わっているのではないか?
(そんな民話があった)
いや、まぎれもない私の母だ。
変わり果てても愛しい母だ。
いつ、以前の母は居なくなったのだろう?
入院した翌朝、初めて激しいせん妄症状が出たとき?
肺塞栓で死にかけてうわ言で私と妹の名を交互に叫び続けていたとき?
在宅介護になった後、いきなり症状が進んで、よだれを垂らすようになったとき?
考えてみると以前のまともだった?ころの母と今とを比べてみるとか、元の母に戻って欲しいとかそんな喪失感というものがあまりない。
以前の母はもう居ないが、実際には母はまだ目の前にいるから。
これが災害や急病で認知症でない(あるいは進んでいない)母親をいきなり失ったのなら、また違う気持ちになるだろう。
父は入院して2週間で亡くなった。
何度も何度も「死んだのは夢だったんだ!」という夢を見て、目覚めてがっくり。
1年くらいそれが続いた。
前に「金の母、銀の母」で寓話的に書いてみたがどちらが私の母なのだろうか?
いま目の前にいる母、それがやはり私の今の母だ。
若いころ読んだ本のなかで「別れ」に関するものがあって印象に残っている箇所があった。
心から相手のことを思っているのに止む無く別れなくてはならないとき…
最も愛情深い別れとは、少しずつ少しずつ、相手に気づかれないように退いていくこと…と。
事情があって我が子を里子に出すとか、恋人同士とかいろいろあるだろう。
自分の気持ちは殺しながら相手には別離の悲しみや負い目を負わせない…
もしかしたら…
長い間、あまりにも長い間…一緒に居すぎた私のために、
一人になった家で、心の隙間を埋めてくれる伴侶も子や孫も…後に続く家族というもののない私のために、
ゆっくりゆっくり、赤ちゃんに戻りながら母は退いていってくれているのかなぁ…
…などと思ってもみる。
*弟→妹、修正済み