ベートーベンの交響曲第4番 | コリンヤーガーの哲学の別荘

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30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 ベートーベンの交響曲には1曲ずつ性格があると思うが、交響曲第4番変ロ長調 作品50は、第3交響曲と第5交響曲に挟まれた、愛すべき古典交響曲であり、かつ多少野心的な作品である。

 この作品はベートーベンにおけるソナタ形式の発展進化を示していて、それは主題の内発性への挑戦でもあった。わたしたちは「和声」と「対位法」を音楽構成上の二つの手法として理解している。が、バッハが好きな人の多くは気がついていると思うが、対位法による副主題の現出は、実は主題(テーマ)に対する和声を媒介して導かれるものである。

 バッハが古典時代を通じて一時「忘れられた存在」(といっても「比較的」という意味で)であったことは最近の研究で明らかになっている。これは24平均律曲集に代表されるように、バッハの音楽が、バロックという「調性に支配された」時代にあって、半音階的な12音に拡大された「調性」音楽を特徴とするからである。有名な「トッカータとフーガニ短調」のコーダ部分を聴けば、ニ短調という「悲劇性」を持つ調性から半ば逸脱した半音階的パッセージは、実は12音階(半音を駆使するという意味でシェーンベルク的ではない)和声の、つまり主題に対応する「移調」「転調」の根拠を持つ「半音」の駆使である。バッハは、おそらくひとつのモチーフを、1曲の中で24調性に転調する可能性を見ていて、それをポリフォニックの中で体現したいと思っていたに違いない。その意図を一番聴き取れるのは「フーガの技法」である。

 

 ところが18世紀の音楽は、「長調」と「短調」という2大性格に対する極端な「長調」偏重の時代であった。人々はサロン的明瞭性を求めていた。啓蒙主義は人類の「自由」「平等」「博愛」というポジティブな思想を抽象的に語り、究極的にはその象徴として「フリーメンソン」なる秘密結社という現象をもたらす。人々は音楽に「明るさ」すなわち「楽天」を求めていた。モーツァルトの交響曲のテーマは、長調(25番と40番は別として)で書かれ、そのテーマが第1主題の2部形式の中で一瞬見せる「短調」への移行は、テーマの持つ内発的な「平行調」「属調」「下属調」への一時的なもの過ぎない。          

 

 引用

 

 したがってベートーベンのソナタ呈示部における諸部分の内的なまとまりは、二重の根拠を持っているが――「テーマ的なもの」としての主要テーマ、経過部、副次テーマとを媒介する基本楽想から部分を演繹するので、ここから実体的な根拠をもつことになり、調性およびメロディー的な性格において主要テーマと副次テーマとの間にある補完的な対立関係によって、機能的な根拠を持つことになり、かくて根拠は二重である――、しかしそれだけではなく、一方の根拠は、他方の根拠の含意に含まれるのである。つまり発展的ヴァリエーションにとって、それがたどるべき道はあらかじめソナタ形式の図式の形式的機能によって指示されているとすると、逆に、実体的な派生によって主要テーマと副次テーマとのコントラストは、補完的対立だといいうとが――つまり互いに無関係な多様性としではなく――明らかになる。

 

『ベートーヴェンとその時代』 カール・ダールハウス 著  杉橋陽一 訳 

 西村書店 109~110頁

 

 交響曲第4番は、ここに示したベートーベンの作曲家としての更なる開拓をよく示している。ソナタとは、「ピアノソナタ」というように器楽曲の楽曲をあらわすのが一般的な理解だが、ベートーベンにとって、ソナタとは「交響曲」や「弦楽四重奏曲」という作品の規模と楽器編成に関わりなく想像の手段であるとともに、自らの創造の開拓の「場」であった。モーツァルトの交響曲の多くの第1楽章は、大抵ソナタ形式を取るが、第1主題と第2主題の動機における「補完的な対立関係」を見つけることはほとんど困難である。ベートーベンはおそらく、自分がモーツァルトの次元をはるかに超えていく世界に踏み出していることを自覚していなかっただろうが、彼がひとつの動機のなかモーツァルトが見つけることができた以上の、そしてはるかに多くのバリエーションの可能性を追求できたことは間違いない。ベートーベンはロマン派の「創始者」としては、バッハ的な12音の体系には目もくれず、疾風怒濤のドイツ文学が示す人間の理性の「情感」や「感性」を音として表現するために「半音階」的な世界と「リズム」の全曲における統一をソナタに導入しようとする。

 

 それは「ロマンティック」という表現で呼ばれる主題の可能性拡大である。

 

 第5交響曲は、そういう意味で「傑作」である。モーツァルトの交響曲は人間理性の美意識に訴えかけるが、ベートーベンのそれは人間理性の具体的な感情=「ロマン」に訴える。第5交響曲を一種の完成された古典交響曲(形式面において)と見るがゆえに「運命」というタイトルをわたしは嫌うが、それでもそのような副題の示唆を伴わなくても、人間の人生における「ドラマ」を捉えることは容易である。ベートーベンの音楽はモーツァトより具体的(現世的)であると思う。

 

 交響曲第4番は、交響曲第5番の前年の1807年に初演されている。ベートーベンは第5交響曲の作曲を中断して完成させている。ロマン・ロランの指摘するいわゆる「傑作の森」期の初期にあたり、彼の「ロマン」の発露が示されている。

 この作品の魅力は、弦楽器の躍動するリズムで、そのリズムは主題の発展と高揚及び収束にある。

 

 変ロ長調の作品の冒頭にト短調のアダージォの序奏を持ってくるハイドンの手法から非常に明るく、躍動的なアレグロ・ヴィウォーチェのヴィルトヴォーゾを展開する第1楽章は、ハイドンが第1楽章でこだわったモデラートではなく、第3、第4楽章の弦楽器の高速パッセージを導くためにヴィヴァーチェを駆使する。この作品は、ワーグナーがベートーベンに第7交響曲にあ称えた「舞踏」に比較するも劣らない「躍動」に満ちている。第5交響曲のフィナーレにおける高揚は、「トレモロ」的に扱われる16分音符の弦の「高速リズム」であり、第4交響曲はこれを予感させる。それがハイドンの音楽に見られる「サロン風」の落ち着きから離れて、人間の「情念」を支える。ベートーベンは思想的には「啓蒙主義」の申し子であったが、音楽的には「啓蒙主義」の帰結としてのフランス革命の血を受け継いでおり、哲学におけるドイツ観念論の「理性の劇場」を体現した。

 

 第5交響曲はよく聴かれて思うが、ぜひこの第4交響曲を併せて聴いてほしいと思う。

 

 さて、CDだが。

 

 弦のヴィルトヴォーゾ、すなわちこの作品の「躍動」を聴くなら何といっても、カルロス・クライバーである。

 

 

 

カルロス・クライバー指揮 バイエルン国立歌劇場管弦楽団

ベートーベン 交響曲第4番変ロ長調 作品50

 

 リズムの切れは一番である。だが、彼の父であるエーリッヒ・クライバーのアクセントとアゴーギグは19世紀のベートーベン演奏を示していて、フルトヴェングラーと同世代であることが伺える。19世紀を通じてベートーベンがどのように演奏されてきたかを実際に確かめるのは至難であるが、SPのピアノ作品の演奏などを参考にすると、テンポは比較的に早く、アゴーギグはどちらかというと「前掛かり」である。

 カルロス・クライバーにはこういう傾向がほとんどなく、インテンポを基調とするが、テンポ設定自体は「前掛かり」(早め)である。この早目のテンポに込めるリズムの切れは、カルロスが南米育ちであることが影響しているようにわたしには思える。父はドイツの正統を伝える巨匠だが、そのドイツの伝統の上のリズムの切れにわたしは「アルゼンチンタンゴ」の躍動を聴くのである。

 残念ながら、父エーリッヒのベートーべの第4交響曲の録音は残されていないようだ。だが息子カルロスと父エーリッヒのリズム感覚の違いは確認できないわけではない。カルロス・クライバーという人は、「仕事を選ぶ指揮者」であった。クラッシック市場で、彼のウィーンフィルハーモニーとのベートーベンの第5交響曲がリリースされた時のセンセーショナルは記憶に残るものだったが、彼は生涯にわたってベートーベンの第3交響曲「エロイカ」や第9交響曲の録音をすることはなかった。モーツァルトの「ジュピター」もない。しかしモーツァルトの交響曲第36番 ハ長調 Kv-425「リンツ」はお気に入りであったらしく盛んに採り上げている。このモーツァルトの作品の特にフィナーレは、ベートーペンを先取りする弦のヴィルトヴォーゾに溢れている。そこではベートーベン的な「人間理性の解放」の悦びは必ずしも十分ではないが、「サロン」的平穏を「感性的」に越えていこうとするモーツァルトの「躍動」を認めないわけにはいかない。この「躍動」に南米の明朗さとリズムの鋭敏を聴き取るのだが、その原点が父エーリッヒのモーツァルト演奏に聴き取ることは必ずしもできない。巨匠たる父の演奏は19世紀的な「ロマンティズム」である。エーリッヒの「リンツ」は残されていないが、モーツァルトの交響曲第39番はyoutubeで聴くことができる。

 

カルロス・クライバー

モーツァルト 交響曲第36番 ハ長調 Kv-425「リンツ」

 

 もう一枚。極めて弦の音が光るCDを紹介する。クーベリックが1970年から75年にかけて完成したベートーベン全集の中の交響曲第4番は、イスラエルフィルハーモーニーを指揮したものである。カルロス・クライバー同様「早め」のテンポだが、「インテンポ」に徹して「前のめり」になることがなく、アクセント、スタッカート、レガートのメリハリが利いた演奏である。どちらかというとベートーベンの「ロマン」より、古典交響曲として全曲をまとめていて聴きやすいのだが、聴いているとその「古典」的解釈の丹精さの中にこの作品の持つ「ロマンティズム」が浮き上がってくる。

 

ラファイエル・クーベリック 指揮

ベートーベン交響曲全集

 

 ところで、このベートーベン交響曲全集は、他の指揮者の全集とは大きく趣きが異なる。この全集はベートーベンの9曲の交響曲に対して一曲ずつ9つのオーケストラをクーベリックが指揮するというものである。

 

 交響曲第1番  ロンドン交響楽団

 交響曲第2番  ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

 交響曲第3番  ベルリンフィルハーモニー管弦楽団

 交響曲第4番  イスラエルフィルハーモーニー管弦楽団

 交響曲第5番  ボストン交響楽団

 交響曲第6番  パリ管弦楽団

 交響曲第7番  ウィーンフィルハーモニー管弦楽団

 交響曲第8番  クリーブランド管弦楽団

 交響曲第9番  バイエルン放送交響楽団

 

 このような企画に対する様々な見方があるだろう。だが、なかなかマッチした選択が含まれていて、たとえば、ベートーベンの中にまだハイドン風の要素が残るといわれる第1交響曲を、ハイドン好きのイギリスのオーケストラ(ロンドン交響楽団)に割り当てたり、自然描写の管楽器の頻発する第6交響曲には、色彩豊かなフランス音楽で鍛えられた技術の高い管楽器奏者を揃えているパリ管を起用するなど、聴いていてうなずける選択がなされている。

 

 交響曲第4番は、イスラエルフィルだが、再三指摘しているようにこの作品の鍵は弦楽器にあり、弦楽器奏者の多いユダヤ人を主要なメンバーに揃えるイスラエルフィルの弦セクションには「艶」があって選択は上手くいっていると思う。

 

 クーベリックという人は、チェコ出身だが幼少のころからウィーンの音楽界にも近い位置にいた。父親のヤン・クーベリックが高名なヴァイオリン奏者で、アルマ・マーラーの『グスタフ・マーラーの思出』(白水社)にも登場する。プラハ音楽院で学んだが、ドイツ圏で活躍する父を持つ環境からであろうか、指揮者ラファイエル・クーベリックの音楽はドイツ的古典に根ざしている。若き指揮者が1948年にシカゴ交響楽団の音楽監督に就任した際はフルトヴェングラーの推薦があったといわれる。一方で彼は、作曲家であり、チェコ人であり、マーラーや東欧の音楽にも精通していた。よってモーツァルトの古典の上に、ベートーベンが開拓した「ロマン」を後期ロマン派の視点で捉えるのである。

 

 ちなみにクーベリックの全集のCDの4枚目は、第4交響曲と第5交響曲を収録していて、第5交響曲はボストン交響楽団の演奏である。この演奏もフェルマーターを過剰評価しないインテンポで、冒頭はよく聴く「運命」とは違って「あっさり」としている。冒頭の主題が全曲を支配するがゆえに、そのリズムもまた過剰にフェルマーターを伸ばして強調されるべきではないと指揮者は考えていたに違いない。言い換えればベートーベンの「ロマン」とは、古典交響曲のようにオーソドックスに演奏しても、楽譜に忠実に演奏すれば、すでに「古典」ではない作品になっているということではないか、と考える。

おわり