哲学総論 つれづれ 53 2種類の概念 | コリンヤーガーの哲学の別荘

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30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 前回わたしは、「本質」を導く「根拠」について、ヘーゲルの叙述に従って、あえて「月」と「太陽」の比喩をもって「根拠」が「本質」に向かう思考過程を述べた。しかし「本質」がさらに「概念」になるためには、根拠によって導き出された「本質」はいまだ未熟な概念であり、ヘーゲルは「概念」として承認していないと述べた。

 

 注 このブログ記事は前回記事「哲学総論 つれづれ 32」と密接に関わるので、できればそちらも読んでいただきたいと思う。

 

 引用

 

 ところで、ヘーゲルはのこの抽象化された思考の発展過程を叙述するにあたり、思考が「概念に到達する以前の段階として、第二篇「本質の論」に「根拠」を登場させていて、次の第三篇「概念の論」に至るまで、この「根拠」を概念化されたものとして承認していない。

 

当ブログ『哲学総論 つれづれ 52』より

 

 「概念」といっても、2種類あって、わたしたちの思考の形式として使われている「概念」は常に分析的判断である。ところが哲学の目指す「概念」とは、そういう分析的な思考形式とは別の、存在そのものを問う「概念」である。

 

 ここでお断わりしておきたいが、この「哲学総論 つれづれ」というわたしの連載記事は、ヘーゲルの『論理学』の序文を省略して、第1篇から叙述順に検討しており、現在の段階では第2篇の「本質の論」を検討課題としているのだが、多少先の叙述「第3篇 概念の論の冒頭について引用したい。

 

 引用

 

 § 160

 

 概念は、自分とむきあう実体的な力としてある自由な存在であり、全体としてまとまりをなす。その要素一つ一つが概念にふさわしい全体をなし、概念と不可分に統一されている。かくて、概念は自己同一性を保ちつつ、内的にも外的にも規定された存在である。

 

 [口頭説明] 概念の立場とは、絶対的観念論の立場です。そして哲学とは概念による認識のことだが、そこでは、日常意識には目の前にあって独立の存在だと思えるものすべてのものを、理念の要素として認識することになります。分析的論理学にあっては、概念は単なる思考の形式、ないし一般観念とみなされるのが普通ですが、こうした低水準のとらえかたがもとになって、感情や心情の肩をもつ人びとのあいだから、概念そのものは、死んだ、空虚な、抽象的なものだという主張が、しばしばくりかえされます。が、実際は話がまったく反対で、概念こそはすべての生命の原理であり、したがって同時に、申し分なく具体的なものです。そのことはこれまでの論理の運動全体の結果として示されていることで、あらためてここで証明する必要はありません。ただ、概念をたんに形式的なものりだと思いこんでいる人の考える、形式と内容の対立について一言すると、この対立は、反省的思考が固定化する他のすべての対立をふくめて、おのずから弁証法的に克服されたものとしてすでに背後に退いているのであって、以前の思考規定のすべてを克服しつつ内にふくむのが、まさに概念です。もちろん概念は形式と見なすこともできるが、形式といっても、充実した内容のすべてを内にふくみ、同時に内から解き放つ、無限の、創造的な形式です。概念が抽象的だといわれる理由として、ほかに、感覚的な具体物――直接に知覚できるもの――だけを具体的なものだと考えるものの見かたがあげられる。概念そのものは手にとることはできないし、概念を問題にしようとすれば、耳や目の出番はない。にもかかわらず、すでに述べたように、概念は申し分なく具体的なもので、それも、存在と本質と、さらにこの二領域の富の全体を、理念によって統一しつつ内にふくむからこそ具体的です。

 

『論理学』 ヘーゲル 著  長谷川 宏 訳  作品社  342~343頁

 

 概念は、自分とむきあう実体的な力としてある自由な存在 (わたしたち日常の認識に対して、それを前提とする以上、日常の知覚、表象を説明する存在であって、わたしたちの日常判断(から自由な本質)を根拠づける存在)であり、全体としてまとまり (世界を説明する法則)をなす。その要素一つ一つが概念にふさわしい全体をなし、概念と不可分に統一されている。かくて、概念は自己同一性を保ちつつ、内的にも外的にも規定された存在である。

 

 [口頭説明] 概念の立場とは、絶対的観念論の立場です。そして哲学とは概念による認識のことだが、そこでは、日常意識には目の前にあって独立の存在だと思えるものすべてのものを、理念(世界存在全体の根拠)の要素(開花)として認識することになります。分析的論理学にあっては、概念は単なる思考の形式、ないし一般観念とみなされるのが普通ですが、こうした低水準のとらえかた(日常思考の形式としての概念と哲学の概念を区別できない仕方)がもとになって、感情や心情の肩をもつ人びとのあいだから、概念そのものは、死んだ、空虚な、抽象的なものだという主張が、しばしばくりかえされます。が、実際は話がまったく反対で、概念(物質の運動と理念)こそはすべての生命の原理であり、したがって同時に、申し分なく具体的なもの(すべての具体性の根拠)です。そのことはこれまでの論理の運動全体の結果として示されていることで、あらためてここで証明する必要はありません。ただ、概念をたんに形式的なものりだと思いこんでいる人の考える、形式と内容の対立(思考と対象の不一致)について一言すると、この対立は、反省的思考が固定化する他のすべての対立をふくめて、おのずから弁証法的に克服されたものとしてすでに背後に退いているのであって、以前の思考規定のすべてを克服しつつ内にふくむのが、まさに概念です。もちろん概念は形式と見なすこともできるが、形式といっても、充実した内容のすべてを内にふくみ、同時に内から解き放つ、無限の、創造的な形式(理念の形式)です。概念が抽象的だといわれる理由として、ほかに、感覚的な具体物――直接に知覚できるもの――だけを具体的なものだと考えるものの見かたがあげられる。概念そのものは手にとることはできないし、概念を問題にしようとすれば、耳や目の出番はない。にもかかわらず、すでに述べたように、概念は申し分なく具体的なもので、それも、存在と本質と、さらにこの二領域の富の全体を、理念によって統一しつつ内にふくむからこそ具体的です。

 

 

赤字はわたしの補筆

 

 ヘーゲルを読む場合、「理念」という用語がキーワードとなる。結論からいうと理念とは「世界の原理」あるいは「神の意思」と読み換えることができるが、単純に、ヘーゲルを理解するためにこの読み換えはお勧めできない。なぜなら思考が、「存在」、「本質」の過程を通じて発展的に「概念」にいたる時、単なる日常概念を捨て去って、はじめて概念が理念を捉えるヘーゲルの叙述は、最初に理念の内容を説明しないからである。

 

 分かりにくい説明なので

 

 ここで、「球」という概念を採り上げてみよう。

 

 太古の人びとは、空にある太陽と月を見て「円形」ということを理解したと考えられる。「円形」という言葉を知らなくても、ねぐらと狩猟範囲の同心円的な距離を意識したとき、空にある太陽の形に興味を持ったはずである。しかし「円」を幾何学上の概念として確立したのはやはりギリシアである。そしてギリシア数学は、存在が空間を前提としていることを知っていたから、「円」を三次元の「球」に展開して見せた。

 ところで、ここまでわたしが「球形」と言わず、「球」と書いてきたのには理由がある。

 「球形」とは、性格には球のような形という物体の形の「性質」であるのに対し、「球」とは絶対観念であり「概念」である。

 

引用

 

 地球が球形であると明確に示したのはアリストテレス(『天界について』  山田 道夫 訳  岩波書店 アリストテレス全集第5巻 『天界に

ついて』第2巻 第14章 133~139頁)である。

 

 当ブログ「哲学総論 つれづれ 52」より

 

 確かに世界には、「球形」を観念する時、天体の形、物質の回転と集合という事象がある。しかしその見え掛かりは平面的な「円」であって、それを月食を見てアリストテレスが地球を「球体」と見て取ったのは、日蝕における影が、円と円の重なりで形成される影であるが、月食の影は球体の影であるとしなければ説明できないからである。

 

 しかしそのとき地球を「球形」という言い方をするのが正しく、地球を「球」であるという言い方は正しくない。

 

 というのは、地球は厳密な「球」ではない「球」のような形をしたものである。地球は自転によって、赤道付近が膨らんでいて、また地球の体積は初期の地球の岩石の集まり方の不均衡で北半球は南半球より体積としてはやや小さい。他の天体もまた、「球形」だが、「球」ではない。月には多くのクレーターがあるように。また「イトカワ」のような小天体は岩石の集合が不十分で形としては不定形である。

 

 球の体積V は、

 

 V = 3/4πr3乗

 

 この式は、球の質量を示すもので、しかし質量を導く「式」の中で「球」の純粋判断が込められている。この式を得た人類は、自分たちが宇宙に限りなく探し求めても見ることのできない「球」を、観念では見ることができるようになった。

 

 この観念で絶対「球」を「概念」として捕まえることができる思考こそ、生命という「有限」な存在である人間の頭の中に「無限=絶対」を捕らえる能力があることを示す。ゆえに人間はいつか「世界の原理」にたどり着く、という思いを持つ。その人間の観念の無限性を、たとえば「神」と名付けるのである。

 

 これに対応するヘーゲルの叙述は

 

 概念は、自分とむきあう実体的な力としてある自由な存在 (わたしたち日常の認識に対して、それを前提とする以上、日常の知覚、表象を説明するものでもあるが=分析的判断の「根拠」であるが、同時に「存在」の「根拠」であって、わたしたちの日常判断から解き放たれた、自由な本質を根拠づけるもの)であり、全体としてまとまり (世界を説明する法則)をなす。その要素一つ一つが概念にふさわしい全体をなし、概念と不可分に統一されている。かくて、概念は自己同一性を保ちつつ、内的にも外的にも規定された存在である。

 

 という部分となる。

 

 自然科学においては、宇宙の起源(ビックバン)のモデル(仮説)というものがある。

 

 引用

 

 ビッグバン・モデルの研究は進み、例えばその温度についてガモフは100億度程度と考えたが、後に1031度と試算されている。ビッグバン直後の宇宙には物資は存在せず、エネルギーのみが満ちた世界だったと考えられている。理論によると、物質の基礎になる素粒子は100万分の1秒が経過した頃に生じ、その時には温度が10兆度程度まで下がった。1万分の1秒後に温度は1兆度になり、陽子や中性子が出来上がった。宇宙は膨張しながらさらに冷え、3分後には水素・ヘリウム・リチウムなどの原子核や電子が生じ、温度は10億度になった。38万年が経過すると温度3800度程度になり、電子が原子核に囚われて原子となって、ビッグバンが起こった時に生じた光子が素粒子に邪魔されずに真っ直ぐ進めるようになった。これは「宇宙の晴れ上がり」と呼ばれ、この光が宇宙背景放射である。原子は電気的に中性で反発しないため、やがて重力で纏まり始めて、約1~1.5億年後にはファーストスターが、約9億年後には星や銀河を形成するようになった。

 

Wikipedia より

 

 これを自然科学の到達した宇宙の起源の要約として評価できるかどうか、科学者でないわたしには判断できない。しかしこの要約に沿って哲学の宇宙の起源のモデルを示すことを試みるならば。

 

 ビッグバン直後の宇宙には物資は存在せず、エネルギーのみが満ちた世界だったと考えられている。

 

 エネルギーに満ちた世界、ということを考える時、わたしたちのまわりに現にある「エネルギー」という概念の持つ内容である。

 たとえば「光エネルギー」という場合、即時的には「太陽エネルギー」と考えがちだが、そうではなく太陽以外を原因とする光の持つエネルギーも太陽の光と同じ性質を持つものである。植物は光エネルギーを使って炭水化物を得る光合成を獲得した生物である。

 光エネルギーという時、それは「熱エネルギー」と物質のあり方としては同質である。「地熱エネルギー」とは、地球の内部のマグマの力を利用する方法だが、そのさい物質の燃焼が光を放つ前に熱を利用するように使われ、たとえば温泉がそれにあたる。太陽のような光を放つ前段階で、物質同士の圧縮により得られた「熱」を利用するが、それは物質同士が衝突することによって得られるエネルギーであり、物質同士の衝突が太陽のような光を放つ「燃焼」に至るかは、その時の物質の置かれている条件による。

 

 わたしたちのまわりには、「位置エネルギー」と呼ばれるものがある。これも、その原因は、物質の「万有引力」である。

 

 「原子力エネルギー」という場合、物質の性質を利用した人間の科学によるエネルギーだが、こういう人為的なエネルギーは自然界の営みを利用したというよりも、あってはならない反応を作り出したというべきである。太陽からの距離と、地球の磁場と大気が遮り、太陽の放射能は地球の生命の営みに影響を与えないほどごく僅かしか届かないし、地球上では太陽で常に起きている「核反応」は自然には発生しない。つまり宇宙の法則は、地球では核反応が発生しないような物質の集合を実現した。だからこそ地球に生命が宿ったのであって、地球という天体に与えられなかった核反応を人為的に発生させたが、人間はその際自分たちに処理不能な「核廃棄物」が出てくることを知らなかった。太陽は自然として「核反応」を実現できる天体であり、地球は自然の産与としては、「核反応」にふさわしくない「場所」(核反応の結果に責任が持てない天体)としてあったわけである。

 この場合の「エネルギー」という言葉は、人間の生活維持に必要なエネルギー事情と電気という分野の商業主義の考え方が反映されていて、「世界の原理」の自然な姿ではない「エネルギー」を示す。哲学上の判断としてこういう「エネルギー」を本来物質に備わった「物質の運動」とは言わない。

 

 1万分の1秒後に温度は1兆度になり、陽子や中性子が出来上がった。宇宙は膨張しながらさらに冷え、3分後には水素・ヘリウム・リチウムなどの原子核や電子が生じ、温度は10億度になった。38万年が経過すると温度3800度程度になり、電子が原子核に囚われて原子となって、ビッグバンが起こった時に生じた光子が素粒子に邪魔されずに真っ直ぐ進めるようになった。

 

 原子を構成する「陽子」や「中性子」の後に、「原子核」と「電子」ができて、宇宙の膨張とともに冷えて「原子」になる。

 

 この哲学の「ビックバンモデル」がどれだけ的を得ているかは分からない。

 

 しかし、原子が冷やされることにより、宇宙の原子は「気体」「液体」「固体」の現実形態に別れ、そのほか宇宙には、物質のない「空間」と「光」が存在する。これはビックバン直後の「エネルギー」しか存在しなかったまさにその「エネルギー」が分岐して、5つの存在となったと考えてよいであろう。そして「気体」を集合させた「恒星」は太陽のように再び「光エネルギー」を発するが、「固体」(岩石)を集めた地球は地下に「地熱エネルギー」を保ちつつ「光」発しない。

 何度も指摘してきたが、物質の燃焼という「光」は、膨張する宇宙の真空空間では「熱」を持たないが、光は直進して何らかの物質(たとえば地球)に突き当たると、物質に「熱」を与える。(ヘーゲル『自然哲学』)もともと「光」を生んだ物質が、宇宙の起源である「エネルギー」に純化して自己の発生起源にぶち当たると、物質に運動を与える「エネルギー」に転化する。この円環をわたしたちが意識する時、哲学が世界認識に向かう以上、「概念」とは日常にまみれた中には見出しえない「普遍性」が求められることが理解される。

 

 存在を突き詰めると、宇宙の成り立ちの問題にまで及んでしまう。

 

 しかし、ひとくちに「概念」といっても、わたしたちの人間社会において、たとえば他人との人間関係を考えるときに使う「性格」とか、生産上の判断で使う「効率」とか呼ばれるものは、「日常概念」(形式論理学上の思考形式)であって、その思考は、「地球上」で、「日本」で、「会社」で、「学校」で、という限定付の場面では「本質」を示すこともあるが、人間の恣意が介在して「本質」ではないこともある。

 哲学の「物質」「重力」「液体」などの「概念」は、それに代わる「本質」を持たない。この概念の構成の上にイメージされる「世界」は美しい「調和」を醸し出す。それは、有限なるわたしたちの認識の限界において「イメージ」でしかないが、世界を認識しようとするわたしたちの生命としての存在の源泉がそこにあるという実感をもたらすのである。よって対象と認識には「おそらく同一性が確保されているであろう」という直感的な判断をもたらす。

 

 日常生活の思考形式に応用するテクニックとしてしか「概念」を捉えなならば、「人生哲学」とか「経営哲学」とか、個人史的な「人生論」しか語ることがない。哲学の「概念」は世界認識を目指すものである。これが2種類の「概念」を説明し、ヘーゲルの「理念」を説明するものだとわたしは考えている。

 

 実在しない「球」を心で観念できる人間の精神の中に、偉大なものが存在する。

 

 以下参考

 

引用(当ブログからの引用で、以下「引用」とあるのは、ブログ記事内の「引用」である)

 

 猿も、理解するのです。母猿が手招きして呼んでいるとき、小猿は、遠くで手招きしている「母」のところへ行くには寄り道せず「まっすぐ」に走ればよいということを。しかしよたよたとした小猿の足は、なんとなく「まっすぐに」しかし、正確にではない「まっすぐ」(=直線的でない)に近い歩みを見せることでしょう。「まっすぐ」行こうとする「意思」は、それが一番早く母猿のところに到達でると知っているからです。
 
 しかし、母と自分との間にある距離を「空間」という概念に展開し、早く到達すると言う目的を「時間」の長さとして置き換えることを「猿」という種では出来ない。現実の自然にある「最短の方法」を「直線」と言う概念に置き換えるためには、経験論を超えた「観念」の「働き」なしにはありえず、よって人間の思考は、唯物論的「自然」を観念的な「原理論」に純化できるということです。ここが人間が「繁栄」している根拠であり、エンゲルスの「観念論」嫌いは、恣意的で自己思想の正当化のために、「唯物論の絶対性」を確保する「固執」「こじつけ」以外のなにものでもありません。『反デューリング論』は、最初から哲学論争ではなくて、ドイツの社会主義を目指す政党内で、デューリング派を失墜させる第一目的があって書かれており、「世界とは」「存在とは」と言うような哲学的な真摯な態度を前提としておらず、その意味でエンゲルスの『反デューリング論』は、政治色合いが濃く、哲学論争の一環として読むのは危険です。

 引用

 ソフィストNo1だったプロタゴラスは幾何学における接線を攻撃したものだった。
 《円と一点で接する接線なとというものがあろうか。円と直線が離れているとすれば一点も共有しないであろうし、くっついているからには一点であるはずがない。》
 これはまさしく。のちにニュートンを攻撃した僧正バークリーのギリシア版というところだ。「唯物論」の祖といわれるデモクリトスも、これには反論した。
 《われわれは、器具が不完全であるために、数学的な円に接する数学的な直線を引くことができない。したがって、円と一点において接する直線を、目で見ることが出来ない。だが、それにもかかわらず、われわれはこれを、精神で見ることができ、論証力で、そうならなければならぬことを知るのである》


 『数学の歴史』 森毅著 講談社学術文庫 33頁


 この世に「直線」はない。仮にわれわれが、精巧な定規を使って引いた「線」が「まっすぐ」な「線」があるとしても、定規が1/100万㎜だけ、欠けている部分があっても、われわれの眼がそれを捉える能力がなければ、それは「直線」らしきものに見えるが「直線」ではありません。
 パソコンの図面専用のソフトを使い、「直線」らしきものを引くことはできるが、ディスプレイの画面を拡大すれば、画像は細かな点であって、拡大せずにわれわれの眼にはいってくる感覚が、「線」を認識するに過ぎないのです。
 直線が「空間の任意の2点の最短距離の位置の連続点」であると言うことも、完全な言い回しではありません。
 そもそも「直線」とは、太さがあってはけない、太さがある直線とは細長い長方形なのであって、「直線」は「太さ」を許さないから、見えてはいけない。われわれの感覚で捉えられているようでは「直線」ではないのです。


 では現実には存在しないのに、われわれはなぜ直線という「概念」を持つことができるのでしょうか?
 猿は「まっすぐ」は理解するが「直線」は理解しない。それは彼らが見ている世界を「空間」と定義し、過去と現在と未来の順番を変えることができない事実を持って「時間」と言う概念に置換えて抽象化できないからです。この抽象化こそ概念を打ち立てる「悟性」の力の結果です。エンゲルスが言う「図形という概念」が思考の外にある「外界からとってきたもの」であるはずがない。外界にあるなんとなく「四角形」に近い「三角形らしきもの」を眺めていて、その一辺から「直線」の定義は出てこない。外界にあるすべてのものに共通するものを一般化(抽象)したときに、すべてのものはある「場所」を占有する。「場所」は他の「場所」と違う具体的な「場所」である。とすればすべての「場所」全体を定義すると「空間」が現れる。空間に対して具体的「場所」と他の具体的「場所」の間に「距離」が生まれ、この距離の最短が「直線」となる。このような抽象化は人間の観念にしか実現できないことである。外界を抽象する能力は、外界をただあるものでなく、存在の法則を導くもので、法則は外界に存在するものにとってはどうでもよく、ただ人間が自らの存在のために外界とかかわり、生活を改善し、より人間にとって便利な世界を実現するために、法則を認識しようと努力してきた結果得られたです。真の「直線」とは外界には「可視的」には存在せず、観念の中にしか存在しません。

 

引用おわり

 

 

 哲学の思考を養う方向は、「抽象思考の駆使に長ける。」という一言に尽きる。