哲学総論 つれづれ 52  | コリンヤーガーの哲学の別荘

コリンヤーガーの哲学の別荘

30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 引用

 

 § 121

 

 「根拠」は同一性と区別の統一である。それは区別と同一性が示すありさまの真の成果であって、自分への反省(立ちかえり)が同時に他なるものへの反省(立ちかえり)であり、逆に、他なるものへの反省(立ちかえり)が自分への反省(立ちかえり)である。根拠は本質の全体を示すものである。

 《注解》 根拠律は、「すべてのものは十分な根拠をもつ」という形をとる。なにかを自己と同一のものと規定することも、差異をもつものと規定することも、たんなる陽、またはたんなる陰と規定することも、なにかの本質を真にいい当てているものではない。なにかは他なるもののうちに自分の存在をもち、他なるものは、もとのなにかの自己同一性をなすものとして、その本質なのである。この本質は抽象的な自己への反省(立ちかえり)ではなく、他なるものへの反省(立ちかえり)である。根拠は本質が本質が自己のうちに存在するありさまであって、本質は本質的に根拠である。根拠が根拠であるのは、それがなにか他のものの根拠である場合に限られる。

 

 『論理学』 ヘーゲル 著  長谷川 宏訳 作品社 274頁

 

 「根拠」は同一性と区別の統一である。それは区別と同一性が示すありさまの真の成果であって、自分への反省(立ちかえり)が同時に他なるものへの反省(立ちかえり)であり、逆に、他なるものへの反省(立ちかえり)が自分への反省(立ちかえり)である。根拠は本質の全体を示すものである。

 《注解》 根拠律は、「すべてのものは十分な根拠をもつ」という形をとる。なにかを自己と同一のものと規定することも、差異をもつものと規定することも、たんなる陽、またはたんなる陰と規定することも、なにかの本質を真にいい当てているものではない。(同一性と差異、陽と陰は本質へ向かう契機である。) なにかは他なるもののうちに自分の存在をもち(月の光は自らの光ではなくて太陽(他なるもの)の光の反射であり)、他なるもの(光は)は、もとのなにか(太陽の燃焼)の自己同一性をなすものとして、その本質なのである。この本質(光)は抽象的な自己への反省(立ちかえり)ではなく、他なるものへの反省(立ちかえり)である。根拠(光の根拠は燃焼であるという根拠)は本質が本質が自己のうちに存在するありさまであって、本質は本質的に根拠である。根拠が根拠であるのは、それがなにか他のものの根拠(太陽の燃焼が燃焼しない月の光の根拠)ある場合に限られる。

 

 解釈の試み

 

 

 ヘーゲルの時代の天文学では限界があって、以下のような考察にまで至っていなかったと考えられる。

 

 太陽と月はいかにも「陽」と「陰」の代表的なものとして捕らえられがちだが、それは文学的な象徴の域を出ない感性的な情緒的な考察である。

 

 なにかは他なるもののうちに自分の存在をもち(月の光は自らの光ではなくて太陽(他なるもの)の光の反射であり)、他なるもの(光=太陽の燃焼)は、もとのなにかの自己同一性をなすものとして、その本質なのである。

 

解釈の試み 終わり (赤字はわたしの補筆)

 

 実は、月にも地球同様に中心部分に、「核(コア)」や「流体コア」「マントル」があり、物質の対流がある以上「燃焼」は存在する。つまり月の持つ独自の光は月表面では現れず、しかし内部では「燃焼」が存在する。これは地球も同じである。太陽の光とは比べ物にならないくらい僅かな光であっても、内部の燃焼が表面現れる火山の爆発時には地球のある部分は光る。

 太陽は気体の塊である恒星であり、燃えやすい物質の形態は、気体、液体、固体の順である。だが液体も固体も一定の温度を超えれば気体化(気化)する。

 そうすると、太陽が光の源で月は太陽の光を反射しているだけだ、というのはわたしたちの表象上の世界であって、光そのものは宇宙空間における物質の大きさや位置などと、それを決めるそれぞの求心力が作るそれぞれの天体の独自性で説明される物質の現実形態である。

 つまり、太陽系には全体の求心力である太陽に、気体と気体化された物質が中心に集まり、常に燃焼しているから光を発する。太陽系にはこのほかに二つの求心力があって、それは惑星と衛生の中心軸である。木星は、太陽と同じように気体からなるガス惑星(太陽同様に水素が非常に多い)だが、表面温度は約-180度だから表面は「燃焼」していない。(太陽同様、水素を大量に持つ木星は大きさが小さすぎて太陽のような「陽子-陽子連鎖反応」が起きなかった。)

 

 哲学において物質の本質を規定する時、それが「燃焼」しているかどうか、ゆえに光を放っているかどうかは、その物質の分析的判断=実現形態(現象)をしめすものであって、物質そのものの本質の規定ではない。(太陽の燃焼は太陽の「本質」ではなく、物質が燃焼するという「本質」を現実に表現している太陽の「性質」に過ぎない。) 物質は条件によって「燃焼」するし、「光」を発する。太陽と惑星の実現形態の違いは、どのような物質がどれだけ集まり、その物質がどのような条件に置かれているかによる。その条件を取り払った時には、地球にある水素も太陽にある水素も同じ元素である。(重水素など水素のあり方は常に同じではないのだけれど。) これが哲学における物質の規定である。太陽の光の根拠は太陽が「燃焼」しているからだという言い方は、太陽の現象であって、太陽の持つ物質が「燃焼」しているという事実は太陽の本質ではなく、物質がある条件で大量のエネルギーを放出するという「物質の本質」のひとつの現象が太陽であるという言い方が正しい。

 

 物質には他の物質を引き寄せる「万有引力」があるが、それを引き寄せるためには、「回転」という「求心力」を必要とする。地球の回転と月の関係は、「求心力」の「均衡」によって説明される。(もっとも、月の自立性は、少しづつ月が地球から遠ざかっているという意味では地球との「完全な均衡」を否定しているが。) 太陽系も太陽の回転により惑星を同心円にひきつける「求心力」であり、無数の恒星の回転の均衡に成立した銀河系も大円盤の上に乗っている。(カントの星雲説は卓見である。)

 

 宇宙空間は「真空」だが、太陽に吸い寄せられない小塊もある。だが基本は「物質」のない空間と、物質が引き寄せられる「回転」の「求心力」への二極分離である。(ダークマターは別として。)

 物質の実現形態は、どの求心力に引き寄せられたかにより変わるわけである。たとえば固体としての「重さ」は太陽に引き寄せられない「自律性」の条件で、しかもある程度の大きさと太陽から自律するための「公転」を獲得する必要があり、ための自律した求心力の獲得には「自転」が必要であった。だから太陽に近いところでは、気体ではない固体が太陽に収斂されなかった固体を集めて岩石惑星が形成され(水星、金星、地球、火星)、少し遠いところでは、太陽の引力に抵抗して別の求心力が「気体」を集め(木星、土星)、さらにその外には「液体」と「岩石」と「氷」を集める(天王星、海王星)こととなった。それぞれの惑星に集められた元素は、太陽が形成される以前は「元素」という本来共通の本質を持っていたが、集合の仕方と集合した場所によって、本質は同一性だが、実現形態としては「気体」「液体」「固体」「燃焼」と、その現象する「性質」は別の形態をとるのである。

 

 地球も「燃焼」していないわけではない。地球誕生の46億年前から3億年ほどは、岩石の集合の「圧縮」によって表面も熱を帯び赤みがかっていたが、やがてその熱を中心に閉じ込めてしまった。今でも地球内部は「マグマ」という「燃焼」を続けているのである。

 また、現代の地球の生きているわたしたちの体にも水素があり、それは核反応を続ける太陽の水素とも木星の液体水素も同一元素であることに変わりはない。同一の物質が、宇宙の具体的な位置による環境の違いから、生命の構成要因にもなるし、燃焼の燃料にもなるし、気体や液体のまま冷え切っている場合もある。それらの具体性の区別と本質の区別における違いを概念として再統一(反省)したら、そこに残るものは「元素」という本質だけである。

 

 

 

 存在とは元素(物質)である。ここまできて存在は「根拠」である。

 

 本質は本質的に根拠である。根拠が根拠であるのは、それがなにか他のものの根拠(太陽の燃焼が燃焼しない月の光の根拠であるが、また月を生み出した根拠は、太陽の存在根拠同様に物質の運動である)ある場合に限られる。

 

 太陽の燃焼が燃焼しない月の光の根拠、という分かりにくい言い方を、もっと分かりにくいかも知れないが、敢えて換言すると、「月が輝くのは太陽によってではなく(直接の現象としては太陽の光の反射だが)、本質的は「月の内部にも存在する」(太陽という具体性を廃して)単なる物質の「燃焼」である。」という言い方に換言できるのである。

 

 世界(宇宙)の抽象としての本質は、空間、時間、物質(存在)、物質の万有引力に換言されると言ってよい。

 

 しかし、ヘーゲルが難解なのは、

 

 「なにかは他なるもののうちに自分の存在をもち、他なるものは、もとのなにかの自己同一性をなすものとして、その本質なのである。」

 

 という論述が、存在論としての『論理学』の中に、この弁証法的過程はいかにも人間の認識の過程を背景としているように描かれるという性格を持つということである。

 

 月が太陽という他のものを反省して、光を自己との同一性としての物質としての自己を獲得する。

 

 この表現は、実は人間の認識の世界での存在論であって、本来無機物の月がそのようなことを認識することはありえないという意味で読まれなければならない。ヘーゲル『論理学』はあくまでも「思考」の形式を語っているが、思考は対象なしに働かないし、思考は対象において「本質」を知ろうとする。だからヘーゲル『論理学』は常に『自然哲学』と関わるのである。この場合「対象」とは、世界認識としての「対象」である。「対象」という時、たとえば人間同士の関係における「対象」は含まれない。人間が歴史を作って社会性を持った後に問題となる人間同士の規範についても、そこに「善」とか「悪」という判断があって、「陽」と「陰」の弁証法による「本質」に至る問題が介在する余地はあるのだが、そこまで踏み込むと「対象」に対する「主観」(好みや嫌悪)が介入してきて、そうなると、人間の主観的な認識が介在する『現象学』の問題が問われる。一方自然を「対象」とする限り、「対象」は人間の「主観」に関わらず、世界の秩序(物理法則)にとどまっていて動くことがない。

 

 余談

 

 ヘーゲルが人間社会の規範について語るのは『法哲学』においてであり、理念の思考上の形式=『論理学』、理念の自然における発展=『自然哲学』、理念の開花としての人間精神=『精神哲学』の後に来る。

 

 余談終わり

 

 話を元に戻して、わたしが、ヘーゲル叙述において、思考が「本質」へ向かう過程で、「陽」と「陰」の対立と克服から「根拠」を導く叙述に対して、「太陽」「月」「太陽系」「銀河系」を持ち出して語ったのは比喩的な方法をとっていて、実はそういう具体性は理解に手がかりを与えるものだが、そのような説明は誤解を与える。むしろ、「空間「時間」「物質(存在)」「物質の万有引力」のみが抽出された概念である。抽出されてしまえば具体性である「太陽」などはもはや思考の対象ではなくなり、消滅すべきというものである。

 

 しかし現実の歴史においては、これらの概念は、「太陽」などという科学認識ではなく、もっと素朴な自然との対峙において獲得されてきた。

 

 たとえば、太古の狩猟時代には、「空間」はもちろん世界の形式として与えられていたが、空間が最初に意識されるのは「相手との距離」であり、自分と家族と間、自分と獲物との間に何らかの「空間」(スペース)らしき物が存在しているという意識である。それを、縦、横、奥行に展開した三次元としての「空間」において概念化されるのは、農耕の発生を待たねばならなかった。農耕は三次元としての「空間」の全体を世界と捉えて、世界が回転して四季があること、四季に合わせて植物が実ること、その植物が栽培可能であることを知って、星空を見てカレンダーを作った。「いつ種を蒔くか」を知るためである。しかしこの段階で、地球の自転や地球が球形であるというところまでの科学は必要なかった。地球が球形であると明確に示したのはアリストテレス(『天界について』  山田 道夫 訳  岩波書店 アリストテレス全集第5巻 『天界について』第2巻 第14章 133~139頁)である。

 しかし「根拠」という概念が、「四季の根拠は地球(天球)の回転に傾きがあるから」というような発見まで成立しなかったかというと、そうではなく、たとえば「石器をより鋭くするのはより獲物に致命傷を与える」「石器をより鋭くするには壊れにくい石を使ってより柔らかい石を叩く」という太古の人々の思考には、すでに「根拠律」が働いている。古代人の思考には「根拠」という概念化された「名辞」が獲得されていなくても、「根拠律」において思考する能力はあった。

 この制限された「根拠律」を、世界認識に拡張しようとするのが哲学の始まりで、「万物の根源は?」というように「根拠」を世界存在一般の「根拠」まで突き詰める態度が、ギリシアの自然哲学の始まりである。その個別の「根拠」から、すべての「根拠」へ向かう。

 

 こうして中世ヨーロッパで信じられていた天動説は、「根拠」によって地動説に覆されていく。

 

 こういう歴史過程を経た思考が、「根拠」は世界に近づく思考方法であり、この思考形式の積み重ねが今日の自然科学を支えているのだが、この歴史過程の中で、「地動説が天動説を覆したことことが素晴らしい」というよりも、そのような過程を可能とした人間の「根拠律」という思考形式が、「根拠」という言葉で理解されていなくても「石器を作る際の太古の人々にあったということが素晴らしい」というべきであろう。

 

 ゆえに、近代科学の成果を前提としてわたしが述べた、宇宙を持ち出すもなく、思考の形式は太古より発展してきたのであり、ヘーゲルが抽象的に『論理学』を語り、「形式論理学」から距離をとるのは、具体的な科学や社会の背景を捨象して抽象によって導き出される思考の論理を導出しようとするからである。

 

 ヘーゲルを読む困難さ

 

 ところで、ヘーゲルはのこの抽象化された思考の発展過程を叙述するにあたり、思考が「概念」に到達する以前の段階として、第二篇「本質の論」に「根拠」を登場させていて、次の第三篇「概念の論」に至るまで、この「根拠」を概念化されたものとして承認していない。ではなぜ「概念」という言葉を使うかというと、やがて概念化される前提に立っている著者ヘーゲルと、思考発展を客観的に描くという思考のみの主体的な歩みという、いわば二重の主語を織り交ぜているからである。だからこの第二編の「根拠」の記述は「古代人の思考には「根拠」という概念化された「名辞」が獲得されていなくても、「根拠律」において思考する能力はあった。」という段階の歴史上の時間を起点として、いまだ「さまよえるの思考を主語」として描かれ、かつ近代科学の背景をもつヘーゲル自身を主語とする「物語(さまよえる思考)を外から見ている」自分において、同時的に説明しようとしている。

 これがヘーゲルの『論理学』を読む上で、極めて「困難」な問題の第一の点としてある。

 ただし、この発展過程を歴史の時間進行とは直接無関係な思考自身の過程として描こうとする。太古の人々が「空間」を概念化しなくても、隣人との間隔から、「距離」「中間のスペース」を意識しているという過程については、現代人の乳児の思考の発展過程でもあり、両親との「距離」を意識し、やがて初頭教育で「空間」という名辞を学び、算数によって「立方体」を知り、「三次元」の概念にいたる。これは「空間」という名辞を知らなくても日常用語である「上」「下」「右」「左」「遠い」「近い」などの使用がすでに直観において「空間」を理解しているということである。

 これに対して、同じヘーゲルの『精神現象学』は、意識から精神への過程を、超時間的な抽象的な精神の発展を描きつつ、実際の歴史過程にも対応する。しかも意識は、他者の意識と対峙するものとして描かれるから、①自己意識の側の意識の思考、②自己意識に対峙しているもうひとつの他者の意識の思考、③双方の対峙する意識を「外」から見ている「われわれ」の思考という三つの「主体」において叙述を書き分けるから非常に難解である。

 ヘーゲルの難解さの第二の問題は、彼が自分の『論理学』を哲学に純化させて、「形式論理学」との距離をおくとろにある。この対比は、哲学とその他の諸学問を区別し、自然科学と自然哲学を明確に分けようとする意志としても示される。彼が「形式論理学」と言う時、それはアリストテレス以来の概念(カテゴリー)の扱い方を指していると思われる。たとえばアリストテレスの『カテゴリー論』は、存在の名辞の問題提起を導入に、種、類などの分析的手法で「概念」を提出し、その概念に条件節としての「量」「関係」「質」「作用」「対立」「時間」「運動」「所有」などをフィルターをつけて、いわば抽象から具象への過程を分析的に迫ろうとする。これは人間の科学の手法の手引きを目指したものである。ただし人間の思考過程が分析的であるとき、言語の不明瞭性という問題が潜んでいる。言語が与えた「名辞」が哲学者と読者との間で統一的観念を前提できないという問題である。(「健康」という概念は「量」的に語られるものではない「性質」であるが、それでも「この人はほかの人より健康を多く持ってる」という「程度」の概念に人々は日常的に使いまわすのであり、「健康」は「量」的に測られない「質」だが、比較においては量的に語られる。(『カテゴリー論』 アリストテレス 著  中畑 正志 訳 岩波書店 アリストテレス全集 第1巻『カテゴリー論』 第8章 62頁) これは「質」と「量」に対する観念の混乱で、よってヘーゲルは第一篇「存在の論」で、きわめて鋭く「質」と「量」の弁証法を抽象的に展開して見せたのであるし、「質」と「量」の関係についても浮き彫りにした。アリストテレスが一般的命題に条件を課して、一般的命題を具体化する下降的に掘り下げるのに対して、ヘーゲルは抽象の発展の開花としての具体性(現実性)に向かおうとする真逆の方法をとるのである。

 しかし、目指す具象の世界にすでにいるヘーゲルは、抽象的思考がどこに到達しなければならないかを知っていて、よってわたしのように「太陽」や「月」という具体性のある比喩的な表現をできるだけ回避しながらも、『論理学』の最後の記述がどこに行かねばならないかを想定していた。

 新教キリスト教徒だったヘーゲル哲学は、世界の設計者たる神の「理念」が、すべての自然に宿っているという前提に立つ。これをもってヘーゲルを宗教家とするのは早計で、実は彼は自然科学の到達点を大変評価していた。よってキリスト教の教義において神を設定するのではない方法を哲学に求めたのである。

 これがヘーゲルを読む第三の困難さである。

 

 わたしたちは、ヘーゲルよりもっと発展した科学的知識に溢れた現代に生きている。だが、そうした見地から、ヘーゲルを「キリスト教的神の復権」を目指した「御用哲学者」と看做してはいけない。むしろ科学の発展の中に、その「分析的思考の限界」と、古来よりの宗教のフィクション的な「神の国の文学性の限界」に悩んだ哲学者でもある。だからヘーゲルの限界の思弁性をわたしたちが指摘すれば指摘するほど、わたしたちの現代の合理主義優先の思考の限界が問われるのである。

 

 つづく