コロナウィルスに対するもうひとつの克服 | コリンヤーガーの哲学の別荘

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30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 コロナは、人を病魔に陥れ、時に死をもたらすが、

 

 それに加えて、

 

 ① 人間の科学が万能ではないこと、

 

 ② 誰がモラルを持ち合わせていないか、

 

 ③ 誰が為政者として無能か、

 

 ④ 誰がこの期に利益を上げることしか考えていないか、

 

 ⑤ 誰が指導者として愚かか、

 

 をあぶりだす。

 

 ① 科学の不足は、人間のこれからの努力で補うにしても、

 

 ② 「コロナ自警団」とか「迷惑ユーチューバー」などは、モラルのない人間の行動心理であり、

 

 ③ 「GoToキャンペーン」の迷走は、一方で「コロナ」で失業したり、医療従事者が「旅行どころではない」現状にやさしさがなく、観光業救済だけを主眼にしている。(もっとも観光業行の苦境は理解するが)

 

 ④ 様々な給付金を、有名学者の設立した事業者にいろんな回路で金が回る仕組みはいったい誰が考えたのか?

 

 誰が悪い、どの政策が悪い、という人それぞれの考え方はあるだろう。わたしはここで個人攻撃をするつもりはない。(④で述べている「有名学者」は誰だと名指しするつもりはない。もっとも一部では公然の秘密のように噂されているが。)

 

 わたしが言いたいのは、コロナ渦にあって、何が「非モラル」であり、何が政治の「迷走」と「無責任」であり、何が経済優先の「弊害」なのかは人々にとって分かりやすくなったと思う。

 

 そもそも6月17日に国会を延長せずに閉会したことが、もっとも「愚か」であった。

 

 この際、首相が、桜を見る会、検察庁人事、選挙買収など、野党に攻められることを避けるために国会を延長しなかった、ということが事実かどうかは、ここでは敢えて不問にする。

 

 この時点で、為政者は、「コロナは収束に向かっている」と判断していたか、あるいは、「コロナは収束してほしいし、そういう兆候だから数週間待てば、予定通り経済再建に向かえる」と「たかを括っていた」とたと思われる。ゆえに「Gotoキャンペーン」も「東京除外」などというきわめて後追いの変則で始めなければならなくなるとは1ヶ月前考えていなかったに違いない。だからこそ法律にわざわざ「コロナ収束後の」と書いてしまったわけである。

 ところが、国会解散後、東京のみならず全国で感染者数が増加に転じて、人々は「コロナが収束していない」、人によっては「これは第2波ではないだろうか」と感じるようになった。その間に西日本の豪雨災害も発生した。

 

 毎日のマスメディアによる報道で、様々な専門家が登場して、たとえば、「緊急事態宣言」を出す権限は唯一政府にあって、地方自治体の知事が、個別に自分の都道府県だけで出すことはできない「法律」になっている。本当は地方によりその権限を行使した方が地方の実情にあっている場合もあるのに、である。また大阪では4月に特定の病院を「コロナ患者」専用を指定したが、その病院が何百の患者を受け入れる能力があるのに、5月以降の重篤者の数が激減して、受け入れているコロナ患者が数人しかおらず、コロナ専門に指定されたからベットが大量にあき状態なのに一般患者を受け入れることができなくなっていた。よってこの病院は毎日多額の「赤字」(何百人も患者を受け入れる能力維持のために人件費と経費を維持して、しかも一般患者を受け入れることができないことによる赤字)を生み出しているのに、そういう状態への資金援助の「法律」がない。「Gotoキャンペーン」は地方ごとの活用ができるような「法律」の建前になっていない。大学には大量のPCR検査能力があるのに、大学の検査施設は、「法律」上、医療に転用できないことになっている。イベント機関や飲食店の民間業者が「自主的」にコロナ対策をとっても、顧客にフェイスマスクを義務的に「強制」したら、逆に訴えられたとき、必ずしも業者側を全面的に保護する「法律」の建前となっていない。などなど。

 

 要するに、この1ヶ月(2020年6月から7月)の推移は、コロナの再拡散という事態の変遷を通して、地方自治体、医療機関、大学、研究期間、民間含めて、事態の推移に合わせて、それぞれがその能力を発揮し、連携し、判断するために、そのような人々の努力に足かせとなっている「法律」の不備に対して迅速に法的根拠を与えるのが「立法府たる国会の使命」であったのだ。法律を作るのは、現に施行されている法律との整合性をつけるなど、時間が掛かるだろうが、別に「時限立法」でもよいわけで、その「時限」たる不備は後でも修正できる。それよりも「緊急」事態なのだから、そしてこの「緊急事態」に対して最大限の対処をしようとする人々が、法律の壁に阻まれているのだから、「緊急の立法」は政府の義務である。ところが「緊急事態宣言」を出し、解除した政府自身がこの「緊急」に対する緊張感がなく、この緊急にあって政府にしかできないことは、「立法」「法改正」であるという自覚が欠如していた。

 

 だから6月17日に国会を解散したことは政府の大いなる「愚行」と言わねばならない。

 

 ところで、国家権力とか政府という形態は、本来人々の共同の利益に資するものとして定立された、人間の歴史上の現段階でのとりあえずの「形態」であって、それは理想の共同体のあり方としては「未完成」である。現状の形態は時に、国家権力が個人の自由と対立し、これを疎外する場合もあるし、国家権力が権力を利用して特定の人に莫大な利益を誘導する「不公平」も体現する。わたしが「国家」と呼ばず「共同体」という言葉を使うのは、いまだ実現しない「理想の国家」を頭で想像して「共同体」というのである。近代国家はその理想の途上であり、ゆえにいまだ多くの誤りを犯すが、しかし現状ではこの近代国家に因るほかの方法がない。ゆえに近代国家の「未成熟」が作り出す誤りを、「民主主義」という人々の監視下に置くという理念で「補正」しているのである。

 

 コロナ渦にあって、政府や自治体は「要請」という言葉をよく持ち出すが、法的拘束力のない「要請」によく人々が従うのは、国家の意向に従うというより、それに従うことが人々の「共同の利益」に資するという意識である。国家に対する「忠誠」というよりは、今回の危機にあっては、共同体の目指す幸福への希求の現れである。よって内閣支持率は下がっても、国家の要請には応えるのである。それは国家ではなく共同体の要請であることを知っているからである。

 

 マスメディアで登場する医療関係者は、ベット数の確保という「東京都の要請」とか「大阪市の要請」に対して、その要請に応じた場合の「保証」に言及する前に要請に対する「行動」を先行させている医療機関の苦渋をにじませながら、その要請に応じる根拠は「医療従事者として倫理」を語る。その倫理とは「お金より命」に裏打ちされている。感染の危険と隣り合わせで医療に従事し、人手不足の中で「命を守る」倫理観から精一杯働いている人々を、より有効に働いてもらうために、その潤滑油とならなければならない政府が、「立法」を放棄しているということはとても理解できない。

 同じくマスメディアのインタビューに答える「ホテル」「旅館」の経営者や関係者の発言は、「Gotoキャンペーン」に期待していたけれど、今の状況ではキャンペーンによる収益の確保を何としてもはかりたい、というよりも、自分たちの地域でコロナが再び蔓延したらそれこそ「観光業」は復活できないという期待と不安が入り混じる。

 一方、コロナ自警団の意識とは、コロナ対策が不十分な人を「指導」することが目的ではなく、誰かに対して「絶対的な優位で罵倒したい」という共同体の理念に反する自己の欲求を、「コロナ」を利用して、「自分が他者に対して支配的でありたい」という独りよがりな、歪な心理に基づいており、何が「正義」かではなく、何が自分に「正義」をもたらすにしか関心がない、と言うべきものであり、これが「非倫理」ということである。

 

 わたしたちは、コロナの渦中にあって、必死にそれと対峙しているのだけれど、そして最前線で対応している医療従事者の努力に敬意を払い(その努力をけっして疎かにするつもりはない)つつも、このコラナ渦が本当に収束した時に、コロナが浮き彫りにした人間の「業」の醜さを記憶にとどめなければならない。

 

 コロナが過ぎ去っても、人間社会がつづく限り、コロナが浮き彫りにした、

 

 人間の「非モラル」

 

 政府の「無能」「無責任」

 

 総理大臣の「無能」

 

 政府の政策に食い込んで「私服」を肥やす「愚行」

 

 

 という「危機」は続くのである。

 

 だから、この危機にあらわになった、コロナ以前からあるわたしたちの社会に根付いている、コロナ以外の「危機」についてけっして忘れてはならないし、これを克服しなければならない。

 

終わり