<<Il Iprincipe ignoto>> 名の知られていない王子
Nessun dorma! Nessun dorma! (伊)
1.Nessun = not-any 2. dorma = sleep
Anyone don't sleep . Anyone don't sleep . (英)
誰も寝てはならぬ。 誰も寝てはならぬ。(日)
イタリア語の「お前たち」誰も寝てはならぬの主語 tu = you の省略は、動詞の格変化が主語を推定し確定することが可能だから誤っていないのである。古い言語ほど主語が抜け落ち、しかし動詞、名詞、形容詞が主語の、単複、格、数、名詞の女性、男性、(ドイツ語では中性もあり)により変化するから、主語の記載がなくても主語の何たるかが知れるのです。英語の場合、命令文では主語の省略が可能であるが、anyoneは、代名詞であって副詞にはならない。だから、Don't sleep anyone.というように自動詞sleepを後ろから副詞として修飾できず、主語として使うしかない。はやくも主語表記なしのイタリア語の雰囲気から離れた文になってしまう。
Tu pure, o Principessa, nella tua fredda stanza guardi le stelle che tremano d'amore e di speranza...
3. tu = you 4. pure = yet、but 5. o = or 6. principessa = prince
7. nella (in+laの結合形) ne = about it 8. tua = your
9. fredda = cold (英語で「冷蔵庫」は freezer) 10. stanza = room 11. guardi = look
12. le = the 13. stelle (stella) = star 14. che = that 15. tremano = tremble
16. (d')amore(名詞=sostantivo) = love (noun verbではない) 17. e = and 18. di = of
19. speranza = hope
You but、Prnce in your cold bedroom you look stars that tremble about love and hope.
御姫様、あなたでさえも、冷たい寝室で、愛と希望に打ち震える星々を見るのだ…
英訳は、文法の違いでぎこちない。こういう時は意訳の方がよい。しかし単語の最初のアルファベットは半数以上が両言語で一致している。ヨーロッパの言語は単語においては似通っている。
o = or、 e = and つまり英語の and の発音は中間母音 a と e で音としてはイタリア語の e 「エ」を引きづっている。
Ma il mio mistero è chiuso in me, il nome mio nessun saprà! No, no, sulla tua bocca lo dirò,
quando la luce splenderà!
20. ma = but 21. il = the 22. mistero = mystery 23. è = is
24. chiuso (形容詞=aggettivo) = cloosed (動詞=verbの過去分詞形=past participle)
25. me = me (ただし発音はローマ字発音で「メー」) 26. nome = name 27. mio = my
28.sapra (= sapere) = kowe 29. no = no 30. sulla (su+la の結合形) = on、over、above
31.bocca = mouth 32. lo = him、it 33. diro = (di ~ quando 「~の後で」)
34. quando = when 35. la = the 36. luce = light 37. splendera = spend
But mystery(secret) is closed in me(my mind). My name is not known anyone. No、no、I will tell about it on your mouth when the lioht spends(the sun rises).
しかし私の秘密はわたしの胸の内に秘めるのみで、誰も私の名前を知らない!いや、夜明けとともに私はあなたの唇に私の名を告げよう!
イタリア語の歌詞はかなり象徴的、詩的言い回しで、英語で、I will tell about it (my name)on your mouth when the light spends(the sun rises).と語られてもピンとこない。when the sun risesと象徴的ではない直接表現の方がはっきりする。
close 「閉じられている」には形容詞の用法はない。そこで動詞を形容詞化して過去分詞にして、be動詞構文SVCにはめ込む。わたしがいつも指摘していることだが、「分詞」とは動詞の形容詞化である。
よって、ノーム・チョムスキーの "Syntactic structure"の能動態の受動態への展開不可性の指摘は誤りで、能動態の受動態化はSVO構文のSVC構文への変換により動詞の性質を一般動詞からbe動詞に移転することで展開可能である。
少し説明すると、
現在形(平叙文) I listen to (the) music. 私はその音楽を聴く。(音楽を聴く習慣がある)
現在進行 I am listening to the music. 私はその音楽を聴いているところ(最中)です。
この場合
一方イタリア語の英文化で示される事実は、本文のイタリア語に省略されている主語が英文ではどうしても必要になるという事である。
I will tell about it on your mouth.
つまり英語は後発の言語で、ラテン語系に見られる「名詞、動詞、形容詞の活用の煩雑さ」を語順を導入して改良しているわけで、単語の近似性はあっても、英語と同時にドイツ語を学ぶのは「主語先頭の基本原則」が共通しているから楽で、ラテン語系は、順番に秩序がないから述語が先頭である場合などは、語尾の活用に注目せねば何が主語かわからない。しかしそれでも人称との対応のみであれば、活用は1、2、3人称×単、複で6種類だけだが、これに動詞の場合は、過去、現在などの時制が絡むから、ラテン語系言語の活用の多さは英語の比ではないのである。つまり活用が複雑で第2言語として日本人が獲得するにはかなりの慣れと訓練が必要となる。
オペラの内容と構成についての勝手な私論
姫は求婚者に「謎を解いたら妻になる」という条件を出して多くの若者の命を奪ってきた。謎解きを強要して若い男たちに死を与え続けてきたるトゥーランドゥット姫が、名の知れぬカラフ王子に謎を解かれて追い詰められる。
しかし姫はカラフとの結婚を承服せず、逆にカラフは姫に「私の名を朝までに突き止めたら姫との結婚をあきらめる」という条件を突きつける。
「誰も寝てはならぬ」とは、北京の都に「彼の名を知るものは名乗り出よ。名がわかるまで誰も寝てはならぬ」と姫が出した「おふれ」のことなのである。
この場面でカラフの決意は、自分で名を明かすことで、氷のようにつめたい姫の心を開こうというものである。この決意が実行されるフィナーレの直前までカラフとトゥーランドゥト姫は対立したまま緊張感を持って音楽は進む。しかしカラフが謎を解く前と違って完全に形勢は逆転する。
譜例1
リコルディ版全曲スコアの419小説目の最後のC音(譜例1)から次の小節前半の一瞬のハ長調からヘ長調への揺らぎは、カラフの勝利を確信した「心の高まり」で、わたしは勝手に「力関係逆転の高揚の転調」と呼んでいる。
これに対して姫はすでに完全に意気消沈し、カラフに「黙ってこの国を立ち去ってください」と懇願する。これは「弱気」をあらわすだけではなく「恐怖の姫」が「普通の人間」に回帰して行く道程をあらわしている。
『トゥーランドゥット』は、ジャコモ・プッチーニの完成(正確には「未完」で、フィナーレはフランコ・アルファーノの補筆である)したオペラでは最後の作品で、プッチーニはその初演を聴くことも観ることもなく、1924年11月29日に永眠した。
美しい調べのパトスと、女性の「死」という悲劇の結末は、『マノン・レスコー』にはじまり、『ラ・ボエーム』『トスカ』『蝶々夫人』と並べれば、プッチーニがこの時点で「マエストロ」と呼ばれたことに何の疑問の余地はない。
これらの作品は日本でも人気が高く、よく取り上げられるが、人気の理由は一様ではなく鑑賞者により位相が違う。ヨーロッパ人にとっては「わたしの蝶々さん」という表現で愛される、かの15歳の日本の少女の悲劇は、この「物語」への魅力を語っている。日本のホールでも『ボエーム』のミミの死や、蝶々さんの「短剣自殺」を前に、お年寄りの女性たちは、物語の結末を知っているのに「泣く」のです。
わたしも、けっして冷静にこの場面を見ているわけではない。何度かコンサートホールで「生」で観ているのだが、やはり「物語」に入り込む自分を抑制することはできない。
これはプッチーニやヴェルディに特徴的で、たとえばワーグナーなどは「物語」の後景に、哲学的な意味合いがあって、たとえば『トリスタン』における「永遠の愛を得る方法としての死」であるとかいう事があって、きわめて冷静に「鑑賞」している自分があるけれども、このイタリアの二人については、鑑賞に当たっては、わたしもまた「感情移入」が伴う。
ただしそれは「物語」の「悲劇性」に対する直接的なわたしの心証ではない。むしろ音楽と物語との相乗効果に対するわたしの喝采である。
『ラ・ボエーム』は確かに「泣ける」物語だけれど、筋としてはこう言ってはなんだが、「同情するが至って何の変哲もない貧しき若者たちの悲劇」である。
それでもわたしが『ラ・ボエーム』に惹かれるのは、むしろその音楽のチャーミングかつエレガントな処理への関心である。
いつか『ラ・ボエーム』の音楽がいかに物語に効果をあげているかを詳しく論じたいと思うが、ひとつだけここで代表的なひとつの事象を指摘しておきたいのは、第1幕の最後でロドルフォとミミが出会い、ロドルフォが「冷たき手を」を歌い、続いてミミが「わたしの名はミミ」を歌い、やがて二重唱となる。
この二人のアリアの旋律は、終幕の最後のミミの死の直前に、二人の間で交換される。ロドルフォの旋律をミミが、ミミの旋律をロドルフォが歌い(もちろん歌詞は違うが)、二人の和解が愛の相互確認として、向かって行く「ミミの死」という悲劇性を克服するかと思わせる「光」を感じさせる。もちろん旋律をどのような伴奏や歌詞やリズムで補強するかというと、当然第1幕と終幕では異なっているし、また異なっていなければならない。「ういういしい若者二人の出会い」とタイトルロールの少女の「死の危機」の場面では、「旋律同形」でも観ているものにそれを感じさせない「物語への感情移入」を誘ってこその「興行」としてのオペラである。音符が読めない鑑賞者をも惹きつけてこそ「劇場作品」である。
だが『ラ・ボエーム』の音楽の、旋律の扱い、対位法処理と管弦楽法は、「物語」を離れても素晴らしのだけれども、音楽が「物語」に寄与し、劇場作品の「価値」を高めているところに、「オペラの音楽」としての真骨頂がある。
プッチーニのロマンス溢れるアリアにとらわれて見落としがちなのだが、マエストロ、プッチーニは、台本を改訂し、舞台装置や演出に意見を出し、管弦楽法は見事なまでに研ぎ澄まされた「技術屋」であって、興行を成功させるためにあらゆる方法を試し、徹底したエンターテイナーとしての態度に帰する冷静さである。
しかし、プッチーニは本質的には生まれ持った「マザコン」で、女性を愛と苦悩のパトスの音楽で包む(くるむ)天才でもあった。
ところが、1904年の『蝶々夫人』まで、興行屋としてのプッチーニと、女性の恋とロマンスという音楽のパトスが見事に融合していたにもかかわらず、もう1人のプッチーニが頭をもたげてくる。つまり「芸術家」プッチーニである。
引用
ある意味で『西部の娘』は、プッチーニの初期の作品に見られる嫋嫋たるはかないヒロインや「甘ったるい音楽」から脱却しようとしたかれの意図を達成した勝利の証しとなるオペラである。まさにこの作品の先に、かれは伝統的なオペラの公式と枠組みを超えた歩むべき進路を見出したのである。そうしてこそ、かれは時代を遥かに先んじた存在足り得たのである。プッチーニが『西部の娘』と決別した新たな領域こそ、最終的にかれをさらに偉大な挑戦―『トゥーランドット』―に導いて行ったのだ。
『評伝 プッチーニ』 その作品・人・時代
ウィリアム・ウィーヴァー シモネッタ・プッチーニ 編著 大平 光雄 訳
音楽之友社 頁224 「プッチーニとアメリカ」 メアリー・ジェーン・フィリップス=マッツ 文
今日のプッチーニの人気が集中する『蝶々』までのプッチーニの作品に対して、『西部の娘』『三部作』『つばめ』の不人気は、聴衆の期待する新たなる「わたしの名はミミ」からプッチーニ自身が脱却しようとしているがゆえに当然である。嫋嫋たるはかないヒロインや「甘ったるい音楽」からの飛躍を模索しているのである。
西部の娘
三部作
つばめ
に対する見解はいずれどこかで表明せねばなるまい。
『トゥーランドゥツト』のオペラの始まりにおいて、トゥーランドット姫は、ミミやトスカや蝶々のような愛くるしい「少女」「若き女性」ではなくて、権力者としてもっとも非人間的な「不条理」を象徴するものとして登場する。どのように女性を描くか、愛すべき恋愛最中のかわいらしい「少女」しか描けないことにこそ、プッチーニの限界があって、本人はそれを超えようとした。
『トゥーランドット』の音楽の鋭さ、カラフが自ら名を語る直前に繰り返される音楽の高揚は素晴らしい管弦楽法の立体感と迫力の三次関数曲線的上昇をみて、かつてのプッチーニにはない芸術としての「オペラ」が成立している。
Ed il mio bacio scioglierà il silenzio che ti fa mia. (伊)
38. ed = and 39. il = the 40. bacio = kiss 41. scigliera = lose 42. silenzio = silence
43. che = that 44. ti = tu の強勢形 45. fa = fareの2人単 = do 46.mia = mine
And my kiss loses the silence that you do (as) mine. (英)
そして、私の口付けによって沈黙の終わりを迎え、私はあなたを得る。 (日)
やはり直訳英文にするとぎこちない。do には自動詞の用法があるから何とか文法的に誤りではないが、意訳になっておらず、伝わらない。that+名詞節には「~ということである」という用法があって、「私のキスが沈黙を解く。すなわちあなたは私のものになる。」という意味合いになるべき英文を作るなら、イタリア語の用法を無視して組み立てなおすべきであろう。
この歌詞は、前回の前編の最後の
sulla tua bocca lo dirò,quando la luce splenderà! の意味内容を継続しているが、音楽としては一旦切れてしまっている。 日本の歌ではよく、「1番の歌詞」「2番の歌詞」という言い方があり、この「誰も寝てはならぬ」もほぼ同じ旋律の2度の繰り返しである。しかしこの歌はオペラという物語進行に基礎付けられていて、この事実上の「2番」の開始の台詞が1番の後ろから切り離されるのは、カラフがまだ夜が明けていない将来の夢想に陥っていて事実上「未来形」で語られ、次の合唱が残酷な現在に引き戻す「対照」効果があるのです。
<<Voci di donne>>
Il nome suo nessun saprà...
E noi dovrem, ahimè, morir, morir! (伊)
<<コーラス(女声)>>
47. nome = name 48. suo = his 49. saprere = kowe 50. noi = we 51. doverre = must
52. ahime = cruel 53. morir = die
Anyone do not koew his name. We must die. Ah Ah cruel. (英)
誰も彼の名前を知らない…私たちに必ず、嗚呼、死が、死が訪れる。(日)
文法的に述べるなら、"anyone"を単数扱いとするか複数とするかで、OE(古英語.中世英語)では代名詞として"his"の用法もあるが、現代では"they"で複数形である。しかし誰か1人が「カラフ」問いう名を知っていれば、北京の市民は死罪を免れるから、ここでは単数形がふさわしいと思う。
イタリア語の文法は「散文的」で文法の発達した「英語」にするのはむつかしい。
<<Il principe ignoto>>
Dilegua, o notte!
Tramontate, stelle!
Tramontate, stelle!
All'alba vincerò!
Vincerò!
Vincerò!
54. dileguare = put out 55. notte = night 56. tramontare = sink 57. alba = daybreak
Put out night. Sink stars. Sink stars.
At daybreak、victry. I win a victory. I win a victory.
<<名の知られていない王子>>
おお、夜よ去れ!
星よ沈め!
星よ沈め!
夜明けと共に私は勝つ!
私は勝つ!
私は勝つ!
勝利とは、カラフ王子が「名を知られず夜が明ける」ことではない。勝利とはトゥーランドット姫を真人間に「解放」することである。ミミやトスカと違って、いたいけな「少女」として登場するのではなく非常な権力者トゥーランドット姫は、その自分の非常さが自分に跳ね返ってくることを知ったのである。
カラフはそれを知っている。「この姫」は本来真人間なのに、この姫が「棘(いばら)の道」を歩んできたのは、「先祖の屈辱」と「自らのプライド」のよりどころたる『皇帝』の血に連なる「高貴」である。が、しかし「高貴」とは一介の庶民にも存在する「自己存在」の「確信」である。
よって自己存在の実現は、自己の生まれた偶然の環境にされることなく、「生きようとする本人の精進(しょうじん)」である。すなわちいくら皇帝の娘として生まれても、年頃になれば肉体は「異性を欲する」し、将来「皇女として」中国に君臨しても、少女時代の「侍女」や「部下」に「目を掛ける」主観性は、権力者としての「公的存在」として振舞われ、ここにはいわゆる「コネ」と「権力」があるのである。
『皇帝の血筋』の愚かさの克服は『皇帝の血筋』であるからこそ自制せねばならないという義務が理解できているかに掛かっている。
よって、カラフに心を解放される「トゥーランドット」は現実にはありえない。
唯一、皇女として多くの他国の若い男の命を「ゲーム」のように奪ってきた彼女の「歪 (いびつ)な性格」は、カラフのまっすぐな「愛」でしか救いようがなかった。トーランドットの「難問」に答えようとする若者の動機は「トウーランドット」という絶世の美女を得たいか、さもなくば、「中国皇帝になりたい」かという権力欲であって、トゥーランドットはその権力に疎外された自分への救いを与えてくれる者を求めて、こたえのない若者を許さない。
最後にフィナーレ前で、トゥーランドットはカラフに屈服するが、その屈服がそれまでできなかったことが彼女の不幸であるし、その屈服は、強がっている彼女に、「その強がり」に意味はない、と諭せた「カラフの勝利」でもある。
2019年7月27日の夜に、ピアノ伴奏の発表会で、わたしはアレクサンドロ・スカルラッティの"Se tu della mia morte"と共に、この作品を歌ったが、カラフのこのアリアの旋律が、姫の心をを改めさせる「勝利」となって、フィナーレの合唱のテーマ(譜例2)に使われる意味についはつくづく納得した。
譜例 2
『トゥーランドット』かなり古い映像だが、ジェームス・レヴァイン指揮、メトロポリタン歌劇場のDVDは、舞台の豪華さで群を抜いている。メトロポリタンの財力とも言えるが、舞台装置、バレイ演出、衣装、演出陣などすべてにおいて、「プロ中のプロ」が関わっている。出演者の衣装の染色さえ、科学顔料を排除した(本当に排除しているかどうかわたしは知らないが)「深み」があって、見ごたえ十分で、ドミンゴのカラフの歌声も演技も素晴らしい。
オペラは古典的な美術演出がよいと思う。
おわり