数 その3 | コリンヤーガーの哲学の別荘

コリンヤーガーの哲学の別荘

30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 2018年10月29日の当ブログの記事『数 その2』 以来の続編である。

 

 検査で感染者とされた人の「数」というのは、本質としては「公式発表された」「数」にすぎない。

 

 検査してしていない感染者の「数」というのは、

 

  ①検査していないが、実は感染している(感染していた)人が、、無症状で人にうつていない(うつさなかった)と考えられる人の「数」

  ②検査していないが、感染もしていない人の「数」

 

 この場合、①は、感染していたが無症状の人が、健康を回復したらその人は二度と他人を感染させることはないのか?つまり「健康を回復する」とは、抗体ができているから、その人は二度と感染せず人にもうつさない(その人の体内にはもうウィルスは無くなった)という意味なのか?問題である。

 次に②の場合、感染していない人は、感染する可能性のある「感染予備群」なのか? 人によっては感染しない「体質」の人もいるのか?が問題である。

 同様に、

 

  ③検査したが、「陰性」だった人の「数」

 

 ③の場合も、「陰性」と判定された人は、今後、感染する可能性のある「感染予備群」なのか? 人によっては感染しない「体質」の人もいるの か?その「体質」とは何か?が問題である。

 

  ④公式発表の新規感染者の「数」は増えているが、それに比べて死亡者数は(4月に比べて)圧倒的に少なくなっているという「数」

 

 ④の場合の「数」の意味は、きわめて「困難」である。というのは、死亡者の「数」が減っている原因が、(4月に比べて)感染者に対する治療や対処が改善されたからなのか?緊急事態宣言や「マスク着用」「3密を避ける」などの政府の指導の効果なのか?

 また、死亡者の「数」が圧倒的に「高齢者」やコロナ感染前から「重大な疾患を抱えている人」が合併症を引き起こす場合に多く、これも、(4月に比べて)感染者に対する治療や対処が改善されたからなのか?そもそも高齢者が感染の危険のあるところに出てこないのか?

 

 感染者「数」とか、死亡者「数」とか、これが「数」という数学、統計的な意味を成さない。今日のコロナ事態にあっては、「数」は、「推移」「比」「傾向」「集中」を示すが、それらの言葉に意味を与えるのが人間の未来への意志と努力である。

 

 その意思と努力が示されないからこそ為政者は信頼されないし、マスメディアも信頼されない。

 

 わたしたちが、小学生で棒グラフの読み方を習う時に、「傾向」や「推移」などを学ぶけれど、前提が違うのだ。東京都民10000人に聞いて、「フランスに行ったことがあるか?」とアンケートしたら、例えば「行ったことがある」と1000人が答えたら、それはおおよそ10パーセントが「行ったことがある」事実を示す。が、検査の対象の地域的、恣意的な選択や時期や方法が違うから、そういう「比例」を意味しない。

 

 感染者数が「増えた」という「増えた」は、わたしたちの日常における単なる「もの」が「増えた」という意識では理解できない「増えた」結果の原因について、複合的な要素を持って説明されねばならない。だから、コロナ事態にあっては、数字は「基数」でも「序数」でもない。それは数学的な統計のまとめであっても、数えるというような数学的な意味ではない。新規感染者が100から200になってもそれは「倍」を意味しない。かといって東京都知事が言い訳がましく「検査数の増加」だけが背景ではないのである。

 

 「数」とは、それ自体抽象であって、何の意味も成さない。意味が重要であって、それを発信してほしい。