徹底した優しさ(わたしのピアノソナタ遍歴)  続編 第1楽章 | コリンヤーガーの哲学の別荘

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30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 お断わり

 

 この記事は、当ブログの前回記事からの連続性を保つため、前回記事の最終部分を重複して掲載しています。(青字部分)

 

 ピアノソナタ第18番ト長調 作品78 D894 『幻想』 第1楽章

 

 この作品は、終止穏やかで、ゆっくりと進む。第1楽章の最初のアウフタクトの2和音が全曲の雰囲気を支配する。シューベルトの目指したものが『幻想』というタイトルに、いささか不透明な「落ち着き」と「優しさ」に浸るわたしたちの一種の「午後の図書室」に似たような、日常の忌まわしさからの解放が込めらられている。

 

 第1楽章  モルト・モデラート・エ・カンタービレ  ト長調、8分の12拍子、ソナタ形式。

 

 

譜例1

 

① 複合拍子

 

  冒頭の2和音は、1/2小節を16分音符11拍に対して1拍の分解してをつくり、(譜例1) 第2小節の最初の半分は8部音符6拍で、4拍子の3分割を基調として、16音符に縮められたアウフタクトのリズムを落ち着かせる。4拍子の分割が3/8でも記譜できる世界を1拍とするこの書法はバッハ的で、単純な3拍子や4拍子の性格と異なり、あくまでも12拍子であることに重要な意味がある。

 それは第2主題の16分音符の右手の旋律に4拍子の秩序を与えることに認められる。ここで左手に冒頭の2和音のリズム変形の支えが第1主題の醸し出す空間からの連続性、一貫性を与えている。一見別の展開に思わせながら、同一のリズムと拍を継続するために、4と3の公倍数に4拍の流れを切らないバッハの記譜技術は、古くから存在するが、対位法と和声の究極を極めたバッハの時代に、音楽の展開に画期的な領域を開拓した。 

 同じ12/8で書かれているベートーベンの『熱情』ソナタと比較すると、1拍の長さを規定しているのは、実はアウフタクトを構成している音の長さである。

 ベートーベンの『熱情』では、1小節全4拍の2拍目と最後の第4拍目を5対1に分割して、16分音符付の符点リズムを作っていて、対するシューベルトは2拍をユニットとし、11対1でアウフタクトの16分音符を採用する。(譜例2)  この違いには、全曲を2拍1ユニットを終止維持しよううとするシューベルトの意図(2拍1ユニットとして4拍子の 強 弱 中 弱 のアクセントを利用して、強ユニットと中ユニットの繰り返しを実現している)と、全曲を4拍の主題の上に1拍の3分割をいわば「通奏低音」として維持しようとするベートーベンの創作上の個性の違いである。

 しかし、どちらの作品も、12/8の選択に込められているのは、2拍ないし4拍を主題の基本的な拍子として、つまり4拍子を旋律の活躍の場として、しかし主に左手のリズムは1拍を3等分するという構造を最初から目指していることである。このような構造を目指すときに、4/4で記譜を用いると、3連符記号のオンパレードで、煩雑な楽譜となってしまう。12/8という複合拍子の採用は、楽曲の構成と主題の関係において適切な選択だが、そういう作風の作品はそう多くはないのである。ベートーベンの32のソナタで、12/8を採用しているのは『熱情』の第1楽章のみで、シューベルトもこの『幻想』の第1楽章みである。なおベートーベンは第32番ソナタ第2楽章「アリエッタ変奏曲」で9/12という複合拍子を採用している。

 

譜例2

 

 ほかに12/8の複合拍子では、有名なショパンの『ノクターン』第2番があげられる。この作品もベートーベン同様、主題の形式としての4拍子に、1拍を3等分するリズムを背景に持ってくる。その効果は、ショパンにあっては主題を支える3拍子のワルツ的効果(譜例3)だが、もしこの作品を3/8拍子で書いてしまうと、12の8部音符に3つおきに 強 弱 中 弱 のアクセントの違いを奏者に求める記譜にならない。よって右手の4拍子に合わせた左手のアクセントを求めるために12/8を採用している。(ショパンは21曲のノクターンで、このほかに第16番で12/8を採用している。)

 

 

譜例3

 

 なお、ショパンが12/8を採用したもうひとつの理由が、譜例3の青丸に示したペダル記号に表れている。

 

② 2拍1ユニット×2

 

 ところでベートーベンの『熱情』とショパンの『ノクターン』第2番が、4拍子の主題を基本としているのは、シューベルトにあっても同じであるが、前項のわたしの記述に示したように、シューベルトだけは、12/8拍子に、2拍1ユニット×2(譜例4)を第1楽章の構造の基本にすえる独特の手法を見せる。

譜例4

 

 上記の12/8拍子を2分割し、強拍と中拍を交互に主題を分ける手法は、古来よりの舞曲形式である6/8のシチリアーノの拡大、拡張形式とも呼べる。バッハのフルートソナタ第2番変ホ長調 BWV.1031の第2楽章はシチリアーノの典型で、このピアノ盤の楽譜は6/8の記譜方法が確認できる。シチリアーノは、1拍8分音符×3を1ユニット×2を1小節とする舞曲である。

 

 

 

 バッハ フルートソナタ第2番第2楽章『シチリアーノ』のピアノ版の楽譜付動画

 

 しかし、シューベルトは、この形式を倍化させて、8部音符×6と16分音符×12を2拍とする1ユニットを主題の基本リズムとして第1楽章を一貫性をもって終止展開する。この一貫性の中で発展に、与えられたモルト・モデラート・エ・カンタービレ(Molto moderato e cantabile)というゆっくりとしたテンポ指定が、「穏やかさ」を保ちつつ、本来速いテンポのアレグロ (Allrgro) などで書かれる第1楽章の躍動的パッセージを、冒頭のアダージョ(Adagio)のようなテンポをそのままにして12/8によって織り込む。したがって、第2主題の1小節16分音符×24のアレグロ的な流麗な音形(譜例5)は、常にモルト・モデラートのゆったりとした4拍の背景を失わない。ゆえにこの第1楽章は、急速楽章ではないが、そのような要素を緩徐楽章的な速度の上に内包することで第1楽章としてのスケールを持ったソナタ形式として確立されている。これに対して『熱情』は冒頭のアウフタクトが1拍を5対1に分割してはじまり、主題は一貫して4拍子を成すため、アレグロ・アッサイ(Allegro assai)の急速楽章をゆっくりとはじめる逆の効果を12/8に求めている。よって提示部以下の激しい音楽を可能としてタイトルの『熱情』を体現する。

 

 

譜例5

 

③ 複合拍子の効果とその要求 

 

 シューベルのこの作品の第1楽章では、記譜上の4拍子は、冒頭のアウフタクトのリズムではそれとなく隠されている。この作品は、2拍のフレーズに対して、インテンポと僅かなリタルダンドを掛ける「アゴーギグ」の出し入れを演奏に求める。ショパンのノクターンやマズルカのようなロマンに溢れる「歌」が求められる。といっても、そのアゴーギグは、テンポの変化に頼ることなく上記②に述べた、強拍1ユニットと中拍1ユニットの繰り返しが自然にそのように聴こえる効果を上げていて、奏者はテンポの揺らぎを過剰に意識せずにインテンポで演奏して、必要最小限必要な場所でアゴーギグをかければよい。というか、シューベルトの楽譜とは、そのように読まねばならない。

 

 このテンポの僅かな「揺らぎ」の感覚は、ベートーベンではさほど多くは求められない。

 

 同じ、12/8で書かれたベートーベンの23番ソナタ『熱情』では、テンポの変化は奏者のアゴーギグに任せるまではなく、ポコ・リタルダンド (poco ritardando)  (徐々にゆっくりと)とフェルマーター、ア・テンポによって詳細に示されている。(譜例6)ベートーベンはメトロノーム記号を音楽史上初めて導入するなど、音楽のスピード変化も作曲の際の「記譜」にも反映されるべきだと考えていたようだが、シューベルトの楽譜にはほとんど登場しない。ピアノ曲だけではなく、たとえば『未完成交響曲』の第1楽章にはリタルダンド、フェルマーター、ア・テンポの指定は一ヶ所もない。

 

 

譜例6

 

 ショパンの場合、ベートーベンと同じように、主題の変遷に合わせて、リタルダンドを指定し、直後にア・テンポ指定をする記譜方法をとる。しかしベートーベンとは異なる性格として、奏者の勝手なアゴーギグを禁止するような記譜も存在する。『ノクターン』第2番で、最初の主題提示を終えて、変奏的な繰り返しの同一箇所で、1拍を8部音符×3で奏するフレーズに提示の1回目では、poco ritard の指定が置かれているのに、同一箇所第2変奏では1拍を4連符に変更して、この箇所には、poco ritard の指定がない。つまりショパンは、この1拍4連打の変則をあくまでもインテンポで演奏する様に奏者に求めている。(譜例7)これはベートーベンの主題の性格上求めるリタルダンド等の指定とは違って、1フレーズに対する「アゴーギグ」禁止の喚起であり、奏者にありがちな主題への陶酔への警告でもある。歌に対する自然なアゴーギグをショパンはコントロールしたいわけである。

 

譜例7

 

 アゴーギグという揺らぎは、本来奏者の主観的な判断に属するというよりも、音楽の自然な流れの内発性から発生するもである。リートのような歌には、「息継ぎ」という呼吸上の問題があって、厳密なメトロノームの進行を止めないより、十分に呼吸してから次に進むほうが人間の自然な(生態学的な)リズムに合致して、むしろそのほうが聴くものに安心感を与えるということがある。よく「音楽にも呼吸がある」といわれるが、これは言い換えると「呼吸のない音楽は息苦しい」ということである。ショパンは歌の呼吸を尊重しつつも、自分の作曲に登場する不規則な、7連符 11連符 13連符の扱いをある程度奏者の感性に任せながら統制するということに苦心していたと思われる。

 シューベルトは、そのようなアゴーギグを音楽の内発性として譜面に反映することがない。それは彼がリートの巨匠として、歌い手の「呼吸に合わせる」ピアノ伴奏譜を当然のものとして、そこに作曲家の意図を書き込まなくても自然なアゴーギグが発揮されるという信念に基づいて作曲しているからである。だからこそ、ピアニストがシューベルトを演奏する困難さがある。シューベルトは、音程、音価、拍子、強弱、スタッカート、アクセント、アーティキレーションは与えてくれても、スピードのギアチェンジを教えてくれない。奏者はここを解釈しなければならないのである。

 

④ ソナタ形式の完結のための回帰を実現する架橋(譜例7)

 

譜例7

 

 展開部は、第1主題以降をト短調、ニ短調に移して2つの頂点(73、93小節)のfffを形成したあと、2拍1ユニットの上に上昇的な、一種熱を帯びた展開を伴って再現部に回帰していく。この回帰には単純な再現の前に、冒頭の「落ち着き」を取り戻すための「架橋」が必要で、それは提示部のリピート前にも現れる。上記の不例7は提示部の終曲直前の「挿入」だが、この変形が第1楽章の終結前の4小節にも現れ、第1、第2主題には登場しないリズムをとりながら、両主題の和声的融合を実現する一種の「架橋」である。こういう曲の終焉を導く部分を、再現部後半にいわば「小展開部」として挿入する手法は、ハイドンの第104番『ロンドン』交響曲のフィナーレや、ベートーベンの第5交響曲の第1、2、4楽章にも認められ、古典的なソナタ形式の単純な「再現」の限界を超ええようとす音楽の必然だが、シューベルトはその「予告」を提示部にも導入し、この4つの小節のフレーズに「終焉」を込める手法をとっている。このことからも、ソナタ形式は拡大して行く傾向にあり、それは器楽作品の長大化を促進する。シューベルトの後期のピアノソナタ演奏にはの第16番、17番は35分、18番以降は40分以上必要とする。もちろん第1楽章の主題提示部のリピートを含むのだが、シューベルトが、ベートーベンへの挑戦を試みるにおいて、「構成」を意識して、そのことがソナタ形式の拡大を必然としたことであるとわたしは思っている。であるがゆえにシューベルトのソナタがベートーベンを継ぐものとして意味があるのである。

 ただし、新たに登場した楽器「ピアノ」が、聴衆を捕らえるためには、ソナタ形式を基礎とする3、4楽章形式をとる40分の長大作品は、「長すぎる」し、スコアを読み込んで「理解」するという前提は、一部の音楽知識を有する人には可能であっても、一般の音楽愛好家が1回のコンサートでそれを聴き取るのは不可能に近い。(今日のようにテープやCDによって繰り返し聴きたい部分だけを再生できる環境が19世紀には存在しないのでなおさらである。) 音楽の聴き手が一部の貴族だけでなく市民階級のものになっていく過程で、ショパンが確立した1曲10分程度の「ピアノ曲」こそ聴衆が求める「小宇宙」であった。もちろんそのような時代背景は、シューベルトに責任があるのではない。彼は果敢にベートーベンのピアノソナタを越えようとし、結果として3、4楽章形式や、第2楽章に緩徐楽章、第3楽章にメヌエットという配置の古典的スタイルを踏襲せざるを得なかったのです。

 

引用

 

 ゆえに、ピアノソナタという楽曲形式に新たな意義を開拓することは困難となるが、それに代わり、「前奏曲」「練習曲」「夜想曲」「スケルツォ」「即興曲」など、10分ほどで自己完結する作風にこそ、ポストベートーベンの役割を見出したのもまたショパンであった。そもそもベートーベンでさえ、ピアノの単一の音色で内面を3楽章制のソナタにまとめるにしても、『悲愴』や『月光』ソナタは、全体としては15分以内の作品だが、ピアノという楽器が、オーケストラのような音色を駆使できない以上、交響曲のように40分近い時間を「小宇宙」として提示して聴き手を飽きさせない「持続」には向かない。(というかそういう書法は限られた作曲家に可能で、それが実はシューベルトであるのだが。)ショパンの24の「練習曲」「前奏曲」のように、24曲が独立してそれぞれ自己完結し、24曲全体で45分なら、人々は、全24曲のそれぞれの「連関性」にこだわることなく1曲ごとに集中して楽しむことができ、24曲に45分を許容できる。

 

中略

 

 わたしは、ピアノソナタという分野は、後期ロマン派以降には、作曲家の主要な分野でなくなっていることに気づいた。実はベートーベンが亡くなった1827年を、ピアノソナタの楽曲的位置の後退のはじまりとすると、約100年後が「小宇宙」である複数楽章制の交響曲もまた「斜陽」を迎える。ブラームスの交響曲が、ベートーベンの延長にあってその限界を示し、ブルックナーやマーラーは、ベートーベンの拡大の上に、ドイツの自然と民衆のメルヘンと、宗教の変質を導入して交響曲を極める一方、チャイコフスキーやドヴォルザーク、シベリウスらは、ドイツ発の形式美を、自国の民族主義に焼き直したが、以後、交響曲が必ずしも作曲家の主要表現から後退していく。(これに逆行できた作曲家はショスタコーヴィチだが、それはシューベルトのピアノソナタ同様、作曲家の個性に由来するものである。)

 

 こうしてみると、いわゆる3楽章、4楽章制をとる「ピアノソナタ」の全盛期は、1750年(それ以前はあくまでもチェンバロ作品である)から1827年頃までの80年ほどで終わってしまうのであり、それはほぼモーツァルトの誕生から、ベートーベンの死までに重なるのである。

 

 すると、わたしが「ピアノソナタ」として聴き逃しているのは、唯一、シューベルトということになる。20歳代後半にわたしは積極的にシューベルトのピアノ作品を聴いた。

 

 当ブログ 前回記事より

 

 ピアノソナタの楽曲としての衰退、長大な作品の減少という時代の中で作曲されたシューベルトのピアノソナタの困難性を克服してこれを聴くには、実はベートーベンのソナタに対する理解が不可欠なのです。

 

⑤ 第1楽章の醸し出す「安寧」

 

 以上のようなわたしの個人的な見解がどれぐらい受け入れられるかはともかく、わたしはこのシューベルトの『幻想』ソナタが好きであると改めて述べておきたい。

 

 「いささか不透明な「落ち着き」と「優しさ」に浸るわたしたちの一種の「午後の図書室」に似たような、日常の忌まわしさからの解放が込めらられている。」という当記事冒頭の文学的比喩がわたしの主観的感想であって、作品の本質ではないのは承知している。

 

 しかしそのようなわたしの感想が導き出される根拠はある。

 

 ひとつには、モルト・モデラート・エ・カンタービレ(Molto moderato e cantabile)の、まるでアダージョ (Adagio) 楽章のようなおだやかな進行の持続に、第1楽章に求められるアレグロ (Allegro) のパッセージをちりばめる手法は、まれにしか使われない複合記号12/8拍子の記譜技術の採用に支えられている。これはシューベルトの天才の成せる技である。

 

 さらに、テンポ変化の無指定の意味を考える時に、歌曲王シューベルトの作曲が、フレーズの自然な内発性への信頼を背景として、テンポの「揺らぎ」を奏者に託して、楽譜上は指定しないという手法の真意を考えなければならない。それがこのソナタの演奏に困難さを与えている。が、わたしたちがCDでこの作品を聴く時点では、多くの素晴らしいピアニストが、その楽譜の記述の不足を補って解釈してくれていることによって、退屈なインテンポの演奏はひとつもない。よってわたしたちの前にあるCDの演奏は、シューベルトと演奏者の共同作業としての芸術作品である。

 

 もう一つは、シューベルトが、偉大なベートーベンを超えようとしてたどり着いた彼の構成力が、古典形式に最後の輝きを与えて結実しているということである。

 

 さて、CDだがここでは第1楽章の演奏に対する印象である。

 速めの演奏で、12/8より、1小節ごとの流れとの解釈なのか、その速めのテンポゆえにテンポの揺らぎを大きくとるのが、ブレンデルとケンプである。だが、この二人の演奏は、その生きた時代の違いにあるのではないか?

 

 ブレンデルは、ほとんど彼のベートーベン解釈の延長で、歌はベートーベンの主題重視の一貫性に主眼があって、シューベルトのリートとしてのフレーズは意識されていない。12/8の2小節1ユニットの 強 中 の対比は無視されている。とはいえ、ベートーンに長く取り組んだ彼の「アゴーギグ」の自然さは聴き取れる。

 

 

アルフレッド・ブレンデル

シューベルト ピアノソナタ第18番ト長調 作品78 D894 『幻想』

 

 

 ケンプは、速いパッセージはテンポが前のみりになる。ケンブはその時代性もあろうが、19世紀のロマンティズムの申し子で、指揮者で言えばフルトヴェングラーの超スローテンポと猛烈なアッチェルランドの出し入れへの一種の「憧れ」が残っていて、それがシューベルトの楽譜から読み取れなくもないが、主観主情主義的でもう少し素朴さがほしい。彼のモーツァルトのトルコ行進曲を聴けば、その傾向は分かる。これはフルトヴェングラーにも当てはまると思うが、要するに「粗い」のである。

 

ウィルヘルム・ケンプ

ピアノソナタ第18番ト長調 作品78 D894 『幻想』

 

 テンポの中庸を行くのは、内田光子とマリア・ジョア・ピリスで、繊細さを持ちながらダイナミズムを失わない。特に余計なアゴーギグを排したピリスの演奏は素晴らしい。

 

内田光子

ピアノソナタ第18番ト長調 作品78 D894 『幻想』

 

ピリス

ピアノソナタ第18番ト長調 作品78 D894 『幻想』

 

 

 意外にも、スローテンポではじめるアシェケナージが、2拍1ユニットを意識した演奏で、シューベルトの境地が、ショパンのロマンに手が届くところにきていたことが良く分かる。過度な「アゴーギグ」が排除されてそれでいて自然に「呼吸」する。

 

アシュケナージ

ピアノソナタ第18番ト長調 作品78 D894 『幻想』

 

 以上のように、わたしの勝手な思いを述べたけれども、その背景には、なかなか聴かれることのないこのシューベルトの名曲をもっと知ってほしいという思いがある。

 

 文学的といったが、

 

 一種の午後の図書室 という比喩はわたしの勝手な想像であり、それをさらに、

 

 「おだやかな日差しを浴びた芝生で戯れる子供たち」と言っても、「落ち着いた午後の光の中で頂く一杯のコーヒー」と言っても、どちらでもそれは象徴であって、聴き手の主観であるし、それは作品の個人的なイメージである。

 

 本来作品に「癒される」感情は聴き手の「自由」に属する。

 

 にもかかわらず、そのような「癒し」を与えてくれるシューベルトが、12/8という困難な手法を使って、また彼の素晴らしい「歌謡性」によって、わたしたちに至福の時を与えてくれる。

 

 そういうことをこの作品に感じることを、わたしは他者に伝えたいと常々思っていた。

 

 そのように思える作品に出会えたことに感謝しなければならない。

 

 つづく