権力者が牙を剥く時 (プラトンの読み方) | コリンヤーガーの哲学の別荘

コリンヤーガーの哲学の別荘

30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 引用

 

 「それでは」とぼく(ソクラテス)は言った、「このような人間と、このような生きものが内に生まれた国家とが、いかに幸福であるかということを語ることにしようか?」

 「ええ」と彼は(グラウコン)言った、「ぜひそうしましょう」

 「ではそのような人間は」とぼくは言った、「僭主(独裁者)となった当初、はじめの日々のあいだは、出会う人ごとに誰にでもほほえみかけて、やさしく挨拶し、自分が僭主(独裁者)であることを否定するだけでなく、私的にも公的にもたくさんのことを約束するのではないかね。そして負債から自由にしてやり、民衆と自分の周囲の者たちに土地を分配してやるなどして、すべての人々に、情けぶかく穏やかな人間であるという様子を見せるのではないかね」

 「必ずそのように振舞います」と彼は答えた。

 「しかしながら、思うに、いったん外なる敵たちとの関係において、そのある者とは和解し、あるものは滅ぼして、そのほうへの気遣いから解放されてしまうと、まず彼のすることは、たえず何らかの戦争を引き起こすということなのだ。民衆を指導者を必要とする状態に置くためにね」

 「ええ、どうしてもそうせざるをえないものです」

 「しかしそのようなことばかりしていれば、どうしても国民からしだいに嫌われるようになってくるだろうね?」

 「それは避けられないことです」

 「それにまた、彼を擁立することに協力して、現在権力のある地位にある者たちのなかからは、彼に対してもお互いに対しても自由に物を言い、事態をとがめる者が何人か出てくるだろうね――人並以上に勇気のある人々がいたならば?」

 「当然考えられることです」

 「そこで僭主(独裁者)は、支配権力を維持しようとすれば、そういう者たちすべてを排除しなければならない。ついには敵味方を問わず、何ほどかでも有為な人物は一人も残さぬところまでね」

 「ええ、明らかに」

 「そういうわけだから、彼は、誰が勇気のある人か、誰が高慢な精神の持主か、誰が思慮ある人か、誰が金持ちであるとかいったことを、鋭く見抜かねばならない。こうして彼は、そういう人々のすべてに対して、好むと好まざるとにかかわらず敵となって陰謀をたくらまなければならないという、はなはだ幸福な状態に置かれることになるのだ――国家をすっかり浄めてしまうまでは」

 「まことに立派な浄めです」と彼は言った。

 「そうとも」とぼくは言った、「医者が身体を浄めるのとは正反対のね。というのは、医者は身体の中から最悪のものを取り除いて最善のものを残すのだが、彼はちょうどその反対のことをするわけだから」

 「じっさい」と彼は言った、「支配をつづけようとするなら、どうしてもそうしなければならないようですからね」

 

プラトン 著  藤沢 令夫 訳 『国家』  プラトン全集 第11巻 岩波書店 

『国家』 第8巻 17 620~622頁

 

 「それでは」とぼくは言った、「このような人間(トランプ)と、このような生きものが内に生まれた国家とが、いかに幸福 (対立する人々の幸福を消滅させて一部の人々の幸福の頂点に君臨する幸福) であるかということを語ることにしようか?」

 「ええ」と彼は言った、「ぜひそうしましょう」

 「ではそのような人間は」とぼくは言った。「僭主(独裁者)となった当初、はじめの日々のあいだは、出会う人ごとに誰にでもほほえみかけて、やさしく挨拶し、自分が僭主(独裁者)であることを否定するだけでなく、私的にも公的にもたくさんのことを約束するのではないかね。そして負債から自由にしてやり、民衆と自分の周囲の者たちに土地を分配してやる(オバマケアの見直し)などして、すべての人々(移民を敵視する人々)に、情けぶかく穏やかな人間であるという様子を見せるのではないかね」

 「必ずそのように振舞います」と彼は答えた。

 「しかしながら、思うに、いったん外なる敵たちとの関係において、そのある者とは和解し、あるものは滅ぼして(アメリカ大使館をテルアビブからエルサルムに移してヨーロッパ各国から非難され、国内の支持率を落としても)、そのほうへの気遣いから解放されてしまうと、まず彼のすることは、たえず何らかの戦争を引き起こす(シリア爆撃、人種差別反対デモを「暴徒」と呼び、戦争=分断を煽る) (香港の自治権を事実上取上げる) (ウクライナと戦争する、反対派の記者を暗殺する)ということなのだ。民衆を指導者を必要とする状態に置くためにね」

 「ええ、どうしてもそうせざるをえないものです」

 「しかしそのようなことばかりしていれば、どうしても国民からしだいに嫌われるようになってくるだろうね?」

 「それは避けられないことです」

 「それにまた、彼を擁立することに協力して、現在権力のある地位にある者たちのなかからは、彼に対してもお互いに対しても自由に物を言い、事態をとがめる者が何人か出てくるだろうね――人並以上に勇気のある人々(暴露本を出版たボルトン氏や、共和党員なのにバイデン氏を支持したパウエル元国防長官)がいたならば?」

 「当然考えられることです」

 「そこで僭主(独裁者)は、支配権力(習近平の中国の磐石)を維持しようとすれば、そういう者たちすべてを(前主席の胡錦濤の息の掛かった政治家を陥れてでも)排除しなければならない。ついには敵味方を問わず、何ほどかでも有為な人物は一人も残さぬところまでね」

 「ええ、明らかに」

 「そういうわけだから、彼は、誰が勇気のある人か、誰が高慢な精神の持主か、誰が思慮ある人か、誰が金持ちであるとかいったことを、鋭く見抜かねばならない。こうして彼は、そういう人々のすべてに対して、好むと好まざるとにかかわらず敵となって陰謀 (大統領任期を延長する)をたくらまなければならないという、はなはだ幸福な状態に置かれることになるのだ――国家をすっかり浄めてしまう (プーチンがロシア国民を手なずけてしまう)までは」

 「まことに立派な浄めです」と彼は言った。

 「そうとも」とぼくは言った、「医者が身体を浄めるのとは正反対のね。というのは、医者は身体の中から最悪のものを取り除いて最善のものを残すのだが、彼はちょうどその反対のことをするわけだから」

 「じっさい」と彼は言った、「支配をつづけようとするなら、どうしてもそうしなければならないようですからね」

 

 哲学書を読むということに躊躇するのは、「哲学」という言葉に込められたイメージとしての「難しい」という先入観によるものであろう。だが、物事を抽象化するという思考に慣れれば、そんなに難しくはない。

 

 ことわっておくが、わたしがプラトンの『国家』の一節に補筆で宛がった「色字」(青以外)の部分は、わたしの主観であって、「真実」ではない。それは証明が不十分だからだ。その証明の是非は実はマスメディアの役割であるのだが、わたしの考えのように思っている人は少なからずいるであろう。それは、マスメディアの伝える「情報」とそれに基づく「現象」(みえがかり)がそのように想像させる余地があるからで、その想像が「真実」とは限らない。

 だが、プラトンの対話篇が語る専制政治が、たとえ当時のアテーナイで起きていた具体的な史実に背景があったにせよ、そうした具体性(「=現象」)が抽象化されてできるだけ匿名で書かれていることに注目してほしい。この思考方法こそ、わたしたちの目の前で起きていることに、たとえば「アメリカ大統領トランプがわたしは好きだ、いや嫌いだ」という先入観をそぎ落として思考できる方法論となるのです。これこそが哲学の思考である。

 それは、トランブの側近の証言をひとつの証拠として「トランプは自分の大統領再選のことしか考えていない」というマスメディアが行う「証明」すなわち論証ではない。そのような論証は実証主義的な個別事態の分析である。これに対して哲学は、弁証つまり「思弁を論ずる」という方法をとる。

 権力者一般がどのように行動するかを具体的な人物トランプに当てはまるかどうかではなくて、一般的な権力者の「本質」を目指す。このときその本質にトランプが当てはまるかどうかということには「関心」を払わないのである。

 

 しかし、プラトンを読む側のわたしたちは、わたしが与えた「補筆」のように具体的なわたしたちの目の当たりにしている現実を当てはめても一向に構わない。そのような読み方は、マスメディアの伝える「憶測」交じりの「真実」よりも、もっと冷静な「本質」を見る目を養ってくれる。それは、現代の政治に限らず、プラトンの時代にも 同じような事態が存在し、しかしプラトンは、その事態を歴史記述(事実の書き残し)に残すのではなくて、事態の本質を見出す「抽象」的思考で『国家』という対話篇を書いているからである。その抽象化が、2000年の時を超えて今日の世界を見る眼に寄与する。

 

 ではわたしの結論は、なにかというと、

 

 権力者が牙を剥く時、それは権力者の「恐怖心」が成せるものである、

 

 ということである。

 

 プラトンの『国家』の特に第7巻以降の記述は、「寡頭制」「民主制」「僭主制」などを比較して、今日のわたしたちの事態に対する理解のヒントが多くあり、そのように読めば哲学書はさほど難しくはないのです。

 

 かなりの長編ですが、ご一読あるべき対話篇かと思います。

 

 おわり