自然描写を自然への畏怖に転化する | コリンヤーガーの哲学の別荘

コリンヤーガーの哲学の別荘

30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 ドイツ的な、あるいは東欧的な「自然」の観念は、本来のキリスト教の観念とは少しずれている。神が人間に与えたもうた「自然」とは「神の創造物」であって、ワーグナーの得意とする円形の篝火の人々の祈り(タンホイザーやパルジィハルで使われ、かつてグルックも多用した)は、キリスト教の本来のイメージに、キリスト教以前の北欧神話、ゲルマン神話の精神が添えられている。カトリックの先進イタリアやフランス、スペインの宗教祭とは趣が違う。

 「自然に神々が宿る」というのは多神教的精神であり、タンホイザーの愛の女神たるヴェヌス(ヴィーナス)も全くキリスト教的神にはほど遠いし、東欧も、たとえばその雰囲気が少しあって(ヤナーチェクのオペラ)、チェコ出身のマーラーにも幼さない時に感覚的には刷り込まれている。

 

 ベートーベンの田園交響曲の目指した「自然描写」とは違う神々が宿る「自然への畏怖」という精神を伴った「自然」を描くのが、マーラーの第3交響曲である。

 

グスタフ・マーラー作曲  交響曲第3番 ニ短調  1896年完成

 

 第1楽章

 力強く、決然と (Kräftig. Entschieden.) ニ短調 4/4拍子 拡大されたソナタ形式

 

 第2楽章

 テンポ・ディ・メヌエット きわめて穏やかに (Tempo di Menuetto. Sehr mäßig. Ja nicht eilen!) イ長調 3/4拍子 ABABAのロンド形式

 

 第3楽章

 コモド・スケルツァンド 急がずに (Comodo. Scherzando. Ohne Hast.) ハ短調 2/4拍子 複合三部形式

 

 第4楽章

 きわめてゆるやかに、神秘的に 一貫してppp(ピアニッシシモ)で (Sehr langsam. Misterioso. Durchaus ppp.) ニ長調 2/2拍子

 

 第5楽章

 快活なテンポで、大胆な表出で (Lustig im Tempo und keck im Ausdruck.) ヘ長調 4/4拍子で 三部形式

 

 第6楽章

 ゆるやかに、安らぎに満ちて、感情を込めて (Langsam. Ruhevoll. Empfunden.) ニ長調 4/4拍子 変奏曲の要素を持つ自由なロンド形式

 

 この巨大(長大)交響曲は、マーラーのその作曲の意図に関係なく音楽として十分楽しめるのだが、彼が作品において目指したものを汲み取るのはそう容易ではない。

 マーラーは当初この作品に楽章ごとの標題を与えようとしたが、破棄している。

 

第一部

 序奏 「牧神(パン)が目覚める」

 第1楽章 「夏が行進してくる(バッカスの行進)」 

 

第二部

 

 第2楽章 「野原の花々が私に語ること」

 第3楽章 「森の動物たちが私に語ること」

 第4楽章 「夜が私に語ること」

 第5楽章 「天使たちが私に語ること」

 第6楽章 「愛が私に語ること」 

 

 第1楽章の第1主題は、序奏に続き「夏が後進してくる(バッカス)だが、ゆっくりと迫る大自然の訪れで、夜明けの太陽が徐々に照らしはじめる不気味な歩みだが、第2主題で朝がやってきて鳥や獣が微笑み歌うかの管楽器や、ヴァイオリンソロの掛け合いである。繰り返される第1主題の変形は、もう一度自然の美しい行進として迫りながら、再び第2主題の軽快な変奏から発展して、大いなる自然への畏怖を歌い上げ、終曲部のヴィルトウォーゾに向かって、人間の精神としての自然賛歌へと大きな波を描いて第1楽章は終わる。

 

 第2楽章は人間の自然への優しき「慈しみ」で始まり、やがて一旦細かいパッセージが自然の「躍動」を表現して、再びいつくしみに戻る。

 

 第3楽章は今度は自然の「躍動」の方が主役で、活動的に変奏する。

 

 第4楽章は一転して人間の方が主役になり、ニーチェの『ツァラトストラ』の最終章の最後部の引用になるが、ここから「自然」をテーマとするこの作品の困難さが現れてくる。

 

 引用

 

 おまえ、ブドウの木よ! なぜおまえはわたしを称えるのか? わたしはおまえを摘んだではないか! わたしは残酷に振る舞い、おまえは血を流す――。どういうつもりで、おまえはわたしの酔い痴れた残酷さを称えるのか?

 「完成したもの、一切熟したものは――死ぬことを欲するのだ!」おまえはそう話す。ブドウ摘み用の小刀は祝福されてあれ、祝福されてあれ! しかし一切の未熟なるものは生きることを欲するのだ、悲しいかな!

 苦痛は語る、「過ぎ去れ! 失せよ、おまえ、苦痛よ!」と。しかし、一切の悩むものは、生きることを欲するのだ、熟し、快楽と憧憬に充ちんがために。

 ――いっそう遠いもの、いっそう高いもの、いっそう明るく澄んだものに対する憧憬に充ちんがために。「わたしは継承者たちを欲する」と、一切の悩むものは語る、「わたしは子供たちを欲する、わたしはわたしを欲しない」、――

 だが、快楽は後継者を欲しない、子供たちを欲しない、――快楽は永遠を欲する、回帰を欲する。一切の喪のがそれみずからと永遠に同じであることを欲する。

 苦痛は語る、「裂けよ、血を流せ、心よ! さすらえ、足よ! 翼よ、飛べ! 上へ! 上方へ! 苦痛よ!」と。 よかろう! それもよかろう! おお、わたしの年老いた心よ。苦痛は語る、「過ぎ去れ!」と。

 

 『ツァラトストラ』 ニーチェ 著  吉澤 傳三郎 訳  

ニーチェ全集 第9巻 理想社513頁 (第4部 19章「酔歌」 9)

 

 解釈の試み

 

 おまえ、ブドウの木 (自然の生命存在) よ! なぜおまえはわたしを称えるのか? わたしはおまえを摘んだ(命を奪った)ではないか! わたしは残酷に振る舞い、おまえは血を流す――。どういうつもりで、おまえはわたしの酔い痴れた残酷さを称えるのか?

 「完成したもの、一切熟したものは――死ぬことを欲するのだ! (生の意味は死ぬことにあるのだ) 」おまえはそう話す。ブドウ摘み用の小刀は祝福されてあれ、祝福されてあれ! しかし一切の未熟なるもの (生あるものは) は生きることを欲する (「生に執着する) のだ、悲しいかな!

 苦痛は語る、「過ぎ去れ! 失せよ、おまえ、苦痛よ!」と。しかし、一切の悩むものは、生きることを欲するのだ、熟し、快楽と憧憬に充ちんがために。

 ――いっそう遠いもの、いっそう高いもの、いっそう明るく澄んだものに対する憧憬に充ちんがために。「わたしは継承者たちを欲する」と、一切の悩むものは語る、「わたしは子供たちを欲する、わたしはわたしを欲しない」、―― (苦痛は生への執着を子孫に残すことが目的であるを知って、苦痛を受け入れ、自分の生の意味を理解させる。よって滅びは「苦痛」ではない。)

 だが、快楽 (苦痛の反対) は後継者を欲しない、子供たちを欲しない、――快楽は永遠を欲する、回帰を欲する。一切のものがそれみずからと永遠に同じであることを欲する。

 苦痛は語る、「裂けよ、血を流せ、心よ! さすらえ、足よ! 翼よ、飛べ! 上へ! 上方へ! 苦痛よ!」と。 よかろう! それもよかろう! おお、わたしの年老いた心よ。苦痛は語る、「過ぎ去れ!」と。

 

赤字はわたしの補筆

 

 苦痛と快楽。この反対の概念を、苦痛が永遠の命、つまり命の後世への受け繋ぎという子孫を残す崇高な目的のためにこの世の苦痛と向きあい「死」という最大の苦痛をも「掟」として受け入れるのに対して、快楽は子供たちを欲しない、――快楽は永遠を欲する、回帰を欲するゆえに己のみが大事で、永遠に生きて、永遠に快楽に興じていたいという「独りよがり」をもたらすという対比として描かれる。本来「性交」は生命の最大の目的である遺伝子の保存、後世への受け渡しであるのに、「性交」そのものの「快感(エクスタシー)」だけを追い求めるものに変質してしまう。この快楽主義を批判しているのである。

 

 この記述は、第4楽章のテキスト、前掲 516頁 (第4部 19章「酔歌」 12) の直前に現れる。

 

„Zarathustras Mitternachtslied“
(aus Also sprach Zarathustra von Nietzsche)

ALTSOLO:    

O Mensch! Gib acht!
Was spricht die tiefe Mitternacht?
Ich schlief!
Aus tiefem Traum bin ich erwacht!
Die Welt ist tief!
Und tiefer als der Tag gedacht!
Tief ist ihr Weh!
Lust tiefer noch als Herzeleid!
Weh spricht: Vergeh!
Doch alle Lust will Ewigkeit
Will tiefe, tiefe Ewigkeit!

「ツァラトゥストゥラの真夜中の歌」
(ニーチェの『ツァラトゥストゥラはこう語った』より)

(アルトソロ)

おお、人間よ! 注意して聴け!
深い真夜中は何を語っているのか?
私は眠っていた!
深い夢から私は目覚めた!
世界は深い!
昼間が思っていたよりも深い!
世界の苦悩は深い!
快楽−それは心の苦悩よりもさらに深い!
苦悩は言った。「滅びよ!」と
だが、すべての快楽は永遠を欲する
深い永遠を欲するのだ!

 

 この最後の、「すべての快楽は永遠を欲する 深い永遠を欲するのだ!」という最後の一節が、まさに人類への「警告」として収斂されている。

 ニーチェは、この人間の堕落の責任をキリスト教・ユダヤ教の教義の無力に見出した。「神は死んだ」という有名な言葉に象徴される。しかしそれはキリスト教の説く倫理が人間の「快楽」に勝つことができず、現世は「権力欲」「金欲」「自己至上主義(たとえば「性交」の快楽を求めて異性の相手を次々と代えて子供たちに不幸を与えるなど。)」がはびこり、またそうしたものを手に入れた「権力者」の支配はけっして「人倫」に叶っておらず、「略奪」「収奪」「戦争」を繰り返してきた歴史であることに対する洞察を伴ったものである。

 

 ところがマーラーは、ニーチェの警告に対して、もう一度キリスト教に題材して「救い」を描きだそうとする。続く楽章

 

第5楽章の「子供の不思議な角笛」からの歌詞は以下のようになっている

 

„Es sungen drei Engel“
(aus Des Knaben Wunderhorn)

FRAUEN- UND KNABENCHOR, ALTSOLO:

(Bimm bamm!)

Es sungen drei Engel einen süßen Gesang,
Mit Freuden es selig in dem Himmel klang;
Sie jauchzten fröhlich auch dabei,
Daß Petrus sei von Sünden frei.

Und als der Herr Jesus zu Tische saß,
Mit seinen zwölf Jüngern das Abendmahl aß.
Da sprach der Herr Jesus; „Was stehst du denn hier?
Wenn ich dich anseh', so weinest du mir!“

„Und sollt' ich nicht weinen, du gütiger Gott?
Ich hab' übertreten die zehn Gebot;
Ich gehe und weine ja bitterlich,
Ach komm und erbarme dich über mich!“

„Hast du denn übertreten die zehn Gebot,
So fall auf die Knie und bete zu Gott,
Liebe nur Gott in alle Zeit,
So wirst du erlangen die himmlische Freud'!“

Die himmlische Freud' ist eine selige Stadt;
Die himmlische Freud', die kein Ende mehr hat.
Die himmlische Freude war Petro Bereit't
Durch Jesum und allen zur Seligkeit.

「3人の天使は歌う」
(「少年の魔法の角笛」より)

女性・少年合唱、 アルトソロ

(ビム・バム!)

3人の天使が美しい歌をうたい、
その声は幸福に満ちて天上に響き渡り、
天使たちは愉しげに歓喜して、叫んだ。
「ペテロの罪は晴れました!」と。

主イエスは食卓にお着きになり、
12人の弟子たちと共に晩餐をおとりになったが、
主イエスは言われた「お前はどうしてここにいるのか?
私がお前を見つめていると、お前は私のために泣いている!」

「心広き神よ!私は泣いてはいけないのでしょうか?
私は十戒を踏みにじってしまったのです。
私は去り、激しく泣きたいのです、
どうか来て、私をお憐れみください!」

お前が十戒を破ったというなら、
跪(ひざまず)いて神に祈りなさい、

いつも、ひたすら神を愛しなさい、
そうすればお前も天国の喜びを得よう!」

天国の喜びは幸福の街である。
天国の喜びは、終わることがない
天国の喜びがイエスを通して、
ペテロにも、すべての人にも幸福への道として与えられた。

 

 キリスト教的世界を批判するニーチェを題材とした第4楽章に対して、この第5楽章は正反対で、もう一度

 

 天国の喜びは幸福の街である。
 天国の喜びは、終わることがない
 天国の喜びがイエスを通して、
 ペテロにも、すべての人にも幸福への道として与えられた。

 

と、イエスにより人間に幸福がもたらされると歌う。しかしここで「天国」という想念が、現世からの離脱すなわち「死の超克」として示され、それが快楽主義と対置する最大かつ崇高な「子供たち=天子たち(少年合唱)」によってもたらされる、という構図を導く。

 キリスト教には二面性があって、快楽主義の頂点に立つ権力者の正統性の守護神として、庶民の頂点に立つ社会の不合理の維持温存装置としてのイデオロギーという側面がある一方、荒野を耕し、生きることに精一杯の庶民が、それでも子をなし賢明に育てる。このとき現実の生活の苦痛を和らげるものとしての「信仰」という側面がある。ゆえに苦しむ民は教会に通い、神に祈りを捧げる。原始宗教が成立する動機付けは、庶民の苦難を解放する「絶対者」が人倫をもたらすという仮定のもとに成立する。想像を絶する劣悪な生活苦に解放をもたらす存在は、多神教の限定された「神々」ではなく、どんな困難も解決しえる唯一の一神教の「絶対者」であるとの観念が望まれた。だからキリスト教の原点であるユダヤ教の黎明期は、快楽主義に対する戒めを明らかにする。

 

  1. 主が唯一の神であること
  2. 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
  3. 神の名をみだりに唱えてはならないこと
  4. 安息日を守ること
  5. 父母を敬うこと
  6. 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)
  7. 姦淫をしてはいけないこと
  8. 盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)
  9. 隣人について偽証してはいけないこと
  10. 隣人の財産をむさぼってはいけないこと

 『旧約聖書』の「出エジプト記」20章3節~17節、「申命記」5章7節~21節

 

 ここに示されたものはすべて「快楽主義」への戒めと見ることができる。

 

 お前が十戒を破ったというなら、跪(ひざまず)いて神に祈りなさい、

 

 神への信仰によってのみ、罪は浄化される。これに対してニーチェはその信仰自身が人倫などけっしてもたらすことのない「詭弁」と退ける。

 

 これが第3交響曲の内容の矛盾なのだが。

 

 マーラーがどれほどニーチェを研究していたかは定かではない。だがこの矛盾は第3交響曲の構成を改めて眺めた時に、この矛盾の克服が「自然への畏怖」ということに見出せる。すなわち第1~3楽章では、作品全体から見れば、そこでは、宗教、哲学的性格は徹底的に排除されていて、主題は「自然の精神」に対する「尊敬」である。そこから、自然(の精神を会得するために)の山に10年こもった「ツァラトストラ」が山を降りて人々に「かく語った」ことに視点を移す。ブドウを切り取ったわたしを称えるブドウ(生命の自然存在)は、自分たちが「子を成す」ことで「苦痛」を乗り越えて「死」を受け入れることを「悦び」に変えることができるが、子を成す前に人間に食べられて臨終を迎えても、それは人間という他の種の「子を成すことに」貢献する「死である」ことを悟っている自然存在の偉大さを含意する。生命は生命を食らうことで命を繋ぎ、その相克が自然の生命を維持する「調和」でもある。そこに絶対者たる永遠の摂理が、人間の架空の「物語」の本当の絶対性が「世界の調和」に起源を持つことを暗示する。モーゼがシナイ山という自然に篭って受けた「啓示」もまた「大自然の力」を源としている。

 

 動植物、犬猫などの野獣からブドウの実にいたるまで、苦痛を生命の原動力として認識する回路は、むしろ古代ゲルマンのような多神教の方がそれを象徴し、説明しているという記憶が、キリスト教以前の精神よりもドイツや東欧には底流としてあったと思われる。よってマーラーのフィナーレは、

 

 第6楽章で、再び宗教的性格を帯びないものとして、具体的なテキスト(歌詞)を持たない器楽に回帰する。しかも、自然描写をちりばめた第1~3楽章をいわば「前奏」として、序奏の「牧神が目覚める」ホルン8本の開始のテーマを短調から長調に転じて、自然の描写という人間を客体に置く構造から、人間の「自然に対する畏怖(精神)」を通して人間を主体として描きだそうとする。その過程をニーチェによる一神教批判を端緒として、キリスト教の「神」の本来の源である自然の最高の恵みたる「子供たち」が克服して見せて、宗教的絶対者の根源が実は仮想たるものに過ぎず、それは自分たちが見ている「世界」にある「秩序」であることが示される。

 

 この壮大な思想を、第3交響曲がどれだけ表現でききれているかについては、つまりこの交響曲が「成功」しているかについては議論の余地がある。しかしこの交響曲の背景の困難さは明らかある。よってこの交響曲は今日もマーラーの作品にあってはどちらかというと「不人気」の部類に入る。

 

 ただし、以下の引用を読んでもらいたい。

 

 引用

 

 人びとは演奏の開始を、息をこらして待ってた。それというのも練習がすすむにつれて、この作品の偉大さと意義がすべての人びとにわかってきたからだ。第1楽章が終わると、ものすごい歓呼がわき起こった。リヒャルト・シュトラウスは指揮台のまじかに進み出て、この楽章の成功に決定的な承認の印を押そうとするかのように、大げさな拍手を送った。聴衆の興奮は一楽章ごとに高まり、終楽章が終わったときには、熱狂のあまり、全員総立ちとなり、一団となって前方に殺到した。

 

 『マーラーの思い出』  アルマ・マーラー  酒田 健一 訳  白水社 52~53頁

 

 1902年にクレーフェルトでの全曲初演に立ち会ったアルマの証言である。

 こういう作品が1902年に大衆に受け入れられたことは、ヨーロッパにおいても精神的な支柱としてのキリスト教の求心力の後退を意味しており、「聖書」に題材を求めていたバッハ以前の世界では、こんな作品は「異端」の何物でもなく、下手をすれば「宗教裁判」ものである。だが、教団の世界観は、自然科学の発展もあって、「世界ではない」という意識が醸成されていたのは間違いない。ただしクレーフェルトで喝采を送った聴衆がその知識において「キリスト教の否定」、ニーチェの「神は死んだ」とする言葉にどれだけの理解があったかは大いに疑問である。ここのところもこの作品を今日も難解にしていることの現われである。

 どうもニーチェの作品が彼の死後、その文学的な体裁を一因として、「哲学書」ではなく「文学」として愛好されていた節があって、そこに描かれた世界は、さながら中世ドイツ以来の「メルヘン」と誤解されていたようである。同じ「ツァラトストラ」に取材した、リヒャルト・シュトラウスの交響詩は、その精神的な感性は中世の「ティル・オイゲンシュピーゲル」の楽しき「遊戯」の幻想で、ニーチェの「仙人的なツァラトストラ」の思想形成をいわば「可視化」して見せたものと考える。

 マーラーは、そうではなくて、ニーチェの本の一部だけを「自然賛歌」に援用したに過ぎず、この点、マーラーの「深刻」さとシュトラウスの「楽天」は双璧を成していて、しかしどちらも時代の聴衆を捕らえていたのは間違いない。

 

 さて、マーラーの第3交響曲とわたしの出会いは、前回のブログ記事でも紹介した。ラファイエル・クーベリックによるものである。

 

クーベリック指揮 バイエルン放送交響楽団

 

 クーベリックのテンポは速めで、突進するようなところがあるが、「自然」を表現する方向は示している。全曲の解釈に一貫性があり、第6楽章の「天国」への道程は、階段を昇るようなスケールがある。ちなみにクーベリックはマーラーに限らず、かなりテンポ設定が「早い」。マーラーの第6交響曲の第1楽章は、おそらくすべてのCDと比べて、「高速」で、あまりにも「切羽詰った」この行進曲は、ほかの演奏に慣れた人には少々違和感を持つのではないか?ただし彼の演奏タイムは、他の指揮者とそんなに差はない。それはテンポを落とすところでは落とす彼の演奏スタイルで、ぜひドボルジャークの第8交響曲の第1楽章の「疾風」を聴いてほしい。

 

 

ヴァーツラフ・ノイマン指揮 チェコフィルハーモニー管弦楽団

 

 マーラーと同郷のノイマンの演奏は、飾らず、「自然崇拝」の原点で、チェコに育った名オーケストラが、ドボルジャークやスメタナのサウンドのごとく「自然賛歌」を聴かせる。

 

 

マイケル・ティルソン・トーマス指揮 ロンドン交響楽団

 

 冒頭の序奏から、音はつながって演奏されて、レガートの柔らかさが「自然賛歌」に収斂された、構えない落ち着きと奥行きを醸し出す。美しい演奏だが、マーラーの背景にワーグナー同様にゲルマンの古代回帰にあると考えると、男女をめぐる兄弟「相克」と殺した弟の骨から作った角笛が真実を語るというメルヘン(マーラーの習作『嘆きの歌』)は、苦悩と快楽の矛盾を物語り、そのような物語への取り組みの後に挑んだマーラーの第3交響曲の困難さをあらためて思い知る。

 マイケル・ティルソン・トーマスにはマーラーのカンタータ『嘆きの歌』の録音がある。この作品も演奏頻度が低く、しかしマーラーの思索の方向が、シュトラウスほど現世的な音楽の「快楽」より哲学的な「ストイック」に当初より向けられていたことを示し、よってこの作曲家の初期の作品は「一筋縄」ではいかないのである。

 

 哲学者的なマーラー論 

 

 いつか、続編を記したいと思う。