LP、CDの周辺 | コリンヤーガーの哲学の別荘

コリンヤーガーの哲学の別荘

30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 わたしは、50年近くクラッシク音楽のLP、CDを聴いてきた。このブログでも音楽について相当述べてきたけれど、今日はちょっと違った視点の話をしたい。

 

 1.LPのジャケットがわたしにくれたもの。①絵画

 

 LP時代に、わたしのコレクションは150枚ぐらいだったけれど、1990年ごろに全部処分してしまった。いまから考えたら、とっても残念である。ジャケットには意外と多くの情報があって、作品の正式タイトルと作曲完成年、演奏者の氏名、録音年月日、録音場所、録音技術者氏名、作曲者や作曲家の紹介(いわゆる「ライナーノーツ」)などである。

 

 もうひとつ、LPのジャケットは30センチ角ぐらいの紙製で、表面は、作曲者の肖像、演奏者の写真、風景画、抽象画、作曲者や演奏者のゆかりの都市や墓などレコード会社の販売促進のための工夫があったと思う。

 わたしはジャケットに使われている絵画によって、興味をもった画家が何人かいて、そのうち2人を紹介すると、ムンクとクリムトである、ムンクは『叫び』を知っていたけれど、ムンクのほかの作品を探し求めるようになったのは、コリン・デーヴィス指揮の旧シベリウス全集でボストン交響楽団によるLPの表紙にすべてムンクの絵画が使われていたからである。

 クリムトは、クーベリックのマーラー交響曲全集のオリジナルの分売に使われていた。ただしこのジャケットはクリムトの絵画の一部分を切り出して使っていて、「この絵画全体が見たい」と思い、古本屋で低価格の「クリムト画集」を買って、クリムトという画家についての知識を得た。高校生のころである。

 

クーベリック指揮 バイエルン放送交響楽団 

 マーラー交響曲第3番 ニ短調

クリムトを使ったジャケット

 

 

クリムトの絵画『接吻』

 

 2.LPのジャケットがわたしにくれたもの。②アメリカ、イギリス、ドイツ、東欧の都市の位置

 

 ほんの一例だが、フィラデルフィア、クリーブランド(アメリカ)、エディンバラ'(イギリス)、ドレスデン、ケルン、デュッセルドルフ(ドイツ)、ザグレブ(クロアチア)、ブラスチラヴァ(スロバキア)など。

 オーケストラの名前は大抵都市の名前がついていて、LPに記載されているそれらの都市の地図上の位置を中学生ぐらいから確認するようになり、高校生のときに社会科で与えられる「世界地図帳」に飽き足らず、より詳しく知りたいと、『ベルテルスマン 世界地図帳』(10,000円)というのを買ってしまった。こうしてわたしは西欧の都市の位置について学んで行った。

 

 

 ちょうど30歳のころ、野茂英雄投手がアメリカに渡り、BSでメジャーリーグ放送が盛んになったが、今ではわたしは30球団の球団名と都市を地図で示すことができるようになった。しかしこれは、一から暗記したのではなくLPジャケットのオーケストラ名を追いかけた若ころの「経験」が土台になっている。

 英語の発音にも敏感になった。ロサンジェルスは、「ロスエンジェルス」(天使の舞い降りたところ、Los Angeles)で、発音は2つの単語の「リンキング」である。

 勉強とは、英語は英語、社会は社会と分離する必要なく、そういう教育が間違っていて、自分の興味に結び付けて派生的にやったほうが身につく。

 録音場所についても興味があって聴いていたので、例えばカラヤンが現在のフィルハーモニーホールができる前にはLPの録音に「ベルリン・イエスキリスト教会」というところを使っていて、「残響」が大きい。わたしが大学生のころまで、この「ベルリン」とは「西ベルリン」で、都市の四方を東ドイツに囲まれていて、東西の軍事衝突が起きれば非常に危険なところにベルリンフィルがあることに対して、とても複雑な気持ちにさせられたものである。

 

 3.LPのジャケットがわたしにくれたもの。③録音技術とレベール

 

 アナログ録音時代に、レベールによる録音技術の差があることに気づいた。わたしの高校生時代に、クラッシク界では、英デッカ(日本の販売権は当時キングレコード)の技術は抜きん出ていて、ショルティ指揮のR・シュトラウスとかマーラーはとても綺麗であった。それは「弱音」の拾い方にあって、特に弦楽器のトレモロやピッィカートがよく聴こえることで分かった。

 米CBS(日本ではソニー)は、録音の良さにムラがあって、バーンスタイ指揮のニューヨークフィルの録音は、同時期のデッカのものに比べると、音がくすんで「華麗な響き」にかけていた。バーンスタインの旧盤のベートーベンやマーラーの録音には当時不満を感じていたが、同じCBSの録音ワルターのものは、1960年前後の録音だが、非常に優れていた。録音の古さは感じたがバランスがよい。コロンビア交響楽団というのは、おそらく人数を絞っていて、各楽器の音が良く伸びる。

 独グラモフォン(日本ではポリドール)は、収録場所や録音技術者によって録音の傾向があって、ベームのベルリンフィルとのモーツァルト交響曲全集では、さほど残響を拾うことなく室内楽的に聴こえる。これに対して同じベルリンフィルでもクーベリックのドボルジャークになると、残響が前面に出てきてフルオーケストラの重厚さを感じる。しかし、クーベリックとバイエルン放送交響楽団の録音は、録音場所のミュヘンのヘルクレスザールの性格もあって、残響の少くない原音に近いもので、舞台裏の第2ブラスバンドを多用するマーラーの交響曲では、奥行き感がもうひとつ感じられなかった。

 

 このように、たった一枚のジャケットの情報を注意深く探って行くことによって、わたしの音楽を聴く「耳」も育ててくれただけでなく、音楽以外の知識も得ることができた。なにかが書いてあるということには、書いてあること以上の背景があることをわたしは学んだのである。いわゆる「行間を読む」ためにはそれに関連する知識の多さにも支えられるもであることも実感した。

 今日、CD全盛でどの録音も、小さな星のきらきらした光を伴っていて、美しいが、デジタルで増幅された「光」を感じることがあり、またかつてあったオーケストラの個性が均一化されているように思えることがある。確かに1950年代以前のモノラル録音のデジタル処理によるCD化は、かつて雑音交じりだったLPで聴いていたものより数段聴きやすくなったと思う。戦前のフルトヴェングラーの演奏など、復刻CDで聴くと、LPで聞き取れなかったような音が聴こえてくることがあって、それはおそらく原音テープに残されているアナログでは再生できなかった音の情報が、デジタルでは反映できるようになったということであろうが、それがよい面もあるが、わたしたちの聴く能力を高めているわけではなく、わたしたちを取り巻く環境が変化したということである。

 よって、本来は「生演奏」を聴くことが原点で、電気的に媒介されない「生」の音楽ほど感動を引き出すものはない。

 

 録音と再生機だけで音楽に接していると、耳が退化するのではないか?

 

 そんな思いの今日この頃である。

 

 おわり