美学ノートより 1  (ビッチ、律、倍音」の周辺) | コリンヤーガーの哲学の別荘

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30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 1.前回からの繋ぎ

 

 前回までの連載「ピッチ、律、倍音」で、わたしは思うところを述べた。わたしは再三述べたが、律や倍音の領域になると、物理学上の法則が貫徹するとはいえ、自然の法則の数値、数学は確かに地球上の「普遍」であるが、音楽の実践上の、つまり作曲や演奏の場面になると、その論理的な整合性は知識以外の何ものでもなく、そのことを発見した近代科学の到達点ではあるが、そのことをもって、古来より伝統的に受け継いできた音楽の練習の方法を否定するものではない。

 ルネサンス時代におよそ「周波数」という言葉は存在せず、そういう知識に関わりなく音楽は発展してきたし、そういう後付の理論を体系立てなくても、倍音の存在は感覚されていた。純正律における「ウルフ」の不協和音も古くから意識されていて、それは数学的な理解ではなくて、感性が音階の「矛盾」を早くから捕らえていたということである。

 音楽の鍛錬において、この矛盾はきわめて経験論的に、アナログ的に克服されてきた。

 

引用

 

 千住先生の「わざと平均律から僅かに外れる」演奏はけっしてパソコンで作ることはできない。

 

 当ブログ「ピッチ、律、倍音 その2」 (2020.5.16)

 

 律の周波数のかつての秘密が、今日物理学上の根拠をもって説明されたからといっても、音程をわざとはずす技術が獲得されるのは、コンピューターによる音程の指標に向かって練習するのではない。それを導くのは芸術家の「美意識」であり、このセンスこそ音楽が感動にいたる根本である。

 

 では、「美」とはなにかが問われる。

 

 わたしたちは日ごろから、「美しい」という形容詞をさかんに使用する。だが、無意識に使用される「美」の観念は、大いに勘違いされている。

 

 たとえば、「美しい」と感覚観念される時に、人は自分の判断の根拠と原因について無頓着であるのです。

 

2.芸術の始原としての「模倣」

 

 「美とは何か」というソクラテスの問いの真意を汲み取れず、具体的な例として「美しい乙女」「美しい牝馬」「黄金」などを挙げてしまう愚かさを露呈するプラトンの対話篇『ヒッピアス(大)』の登場人物ヒッピアスの態度は、一見滑稽に見える。だがそこに概念一般の把握の困難さを示す本質的な問題が秘められているのも事実である。人が、あるものを「美しい」と感じるのは「自由」であり、それは主観的な判断で、他者が「美しくない」と判断しても成立する一種の「趣味」「趣向」に属することはいうまでもない。しかし、その瞬間に人は「何に惹かれているか」ということに、意外と気づいていない場合が多い。

 

 わたしが高校生の時、英語のリーディングのテキストの中に、フランスのバルビゾン派の代表、ミレーの『落穂拾い』を扱った一章があった。英語教員は教科書に印刷されたこの絵画の白黒の『落穂拾い』を示して、生徒に絵の感想(英語講義には全く関係なくほとんど愚問なのだが)を求めたことがあった。ある生徒はこの絵画を気に入ったらしく、「部屋に飾りたい」と答えた。彼はミレーをほとんど知らなかったが、この一件以降、しばらくの間、美術の教科書に印刷されたバルビゾン派の絵画のカラーコピーを時々まじまじと観ていた。

 

落穂拾い ミレー

ジャン=フランソワ・ミレー 『落穂拾い』

 

 彼は「美しい」と思ったのか、あるいは「心なごむから家の壁に貼っておきたい」と思ったのであろう。

 

 後にわたしは美術教員と次のような会話をした。

 

 その生徒はバルビゾン派のファンになったのか、それとも『落穂拾い』のような風景を自分の部屋に懸けてあったら「心がなごむ」と思ったのか、この区別が、英語教員の気分屋的かつ無思量な質問によってできていないということである。絵画の趣味を深めることと、作者のことは良くわからないが、たまたまた気に入った風景を「美しい」と思う気持ちが混同されていて、自分が「ミレーが好き」といっているのか、「その風景が好き」といっているのか区別できていないのである。

 

 引用

 

 この講義は美学(Aesthetik)、すなわち美の哲学ないし学を、しかも芸術美のそれを講じようとするものである。自然美はこれを除外する。一面からいうと、一切の学はその範疇を任意に規定すべきだといえよう。それでわれわれはこのような範囲を設定したのである。が、他面において、哲学が芸術美のみを対象としたことは恣意の規定ではない。

 自然を除外するということはほしいままな局限のように見えるかもしれない。われわれは日常生活において美しい空とか、美しい木とか、美しい証明とか、美しい色としか言うことを常とするからである。たとえば空や音や色のような自然対象が正当に美とよばれるかどうか、それが一般にこの名に値し、かくして自然美が芸術美と同列におかれうるどうかという論争をかたづけることは、ここでは不可能であるし、それを当面の問題とすることはできない。が、われわれの通念では自然美はこのような地位をしめており、しかも普通には芸術は容易に自然美に近づけないとさえ考えられている。芸術の最高の功績は自然美にできるだけ近づくことだというのである。はたして両者がかように相近いものとして並存するならば、芸術美の学としての美学は美の全範囲を包括しないようにみえる。しかしこのように自然美と芸術美とが並存するという観念に対しては、われわれはこう主張する。 -芸術美は精神から生まれたものであるから、自然美より高級なものである、と。

 

ヘーゲル 著 『美学』 竹内 敏雄 訳 岩波書店 

ヘーゲル全集 『美学』第1巻の1 3~4頁  

 

 

 ヘーゲルは冒頭で端的に、芸術美と自然美を区別するとし、『美学』では「自然美」を除外するといっている。

 

 つまり、一枚の絵画に描かれているその「風景」は画家が描く前に、現実に実体としてある「風景」であるし、描かれている人々の人数や服装が現実とは幾分違っていたとしても、画家が描こうとしたものは、現実の世界のどこかに実際にあるものである。

 これに対して、絵画として描かれ成立した一枚の『落穂拾い』は、キャンバスに描かれた「現実の模倣」であって、実在ではない。

 

 最初に示したプラトンの「美とは何か」の問いでは、この自然美、芸術美の区別より以前の、始原的なものであり、芸術作品の媒介を許さない。つまり「美一般」を問うているのである。

 プラトンのこの問いについては、これはこれで深く検討すべき問題であるが、ヘーゲルに従えば、美学は ①描く「対象」と、②描かれた「作品」を区分し、学としての美学は、②の地点たる人間の創造の源としての「精神」を対象とするということになる。

 

 ある画家が、ある女性モデルを描くとしよう。この画家が、このモデルに対して「性的」な欲求を持っていたとしよう。ところがこの画家が、何らかの理由でこのモデルに自分の本心を打ち明けず、ただモデルの絵を描き続けたという場合、その画家にそれ相応の技量があれば、その作品には単なるモデル(自然)の写し取りではなくて、画家のモデルに対する「性的な心情」や「打ち明けられない本心」のジレンマという精神が込められているはずである。単なる「似顔絵」を目指すなら、自然の模倣の技術のすぐれたデジカメの写し取りに、画家は技術的に抵抗することはできないが、画家のモデルに対する「思い」をデジカメに切り取ることはできない。

 この芸術家の込める「精神」に理解を及ぼすためには、美学は「科学」であってはならないし、ここに人間の精神の崇高さを認めることが芸術論の主眼である。

 

 自然の所産は、即時的には同じ自然の所産たるわたしたちの「欲求」を満足させるものとしてある。

 

 動物の絵を描く時、対象としての豚は、豚肉としてわたしたちの胃袋を満足させる「消費」対象である。相手の命を奪うことで「食らう」ことが人間の性(さが)で、そうしないと生き延びれないのだが、その「欲求」をいわば我慢して相手を食い尽くす対象に置きとどめず、相手に対する自分の現在の「心情」を保存しようという意志において始めて芸術は成立しているのである。上記の画家は、セックスの対象としてのモデルを獲得したいという自然美の意識を超越して、そう感じている自分の「精神の美しさ」を大切にしてこれと向き合っているのであり、これが「美意識」というものであろう。

 「美そのもの」とは何か、という問いに、「美しい乙女」と答えてしまうようなヒッピアスの態度は、自己の精神に対する問いかけに欠けている。またこの自己の精神に対する問いかけこそ人間を理性的な存在に高めている根拠である。

 

 ここのところを踏まえないで「美学」など成立しない。

 

 「自然の模倣」とは、自然の美しさへの限りない「憧憬」が成立していて始めて実現される「創造」へのあくなきアプローチであり、それは相手を食い尽くさねば自分が生存を維持できない、という即時的な「欲求」を克服していく人間の「崇高さ」の成立史であって、「対象を自己の思いと同時に保存する」ということに「美しさ」の端緒を求めようとする人間の未来への意志の「強さ」である。

 

 次回より、芸術がどのように始まったかをわたしなりに述べていきたい。

 

 追伸

 

 この「美学ノート」は、35年前から書き溜めているわたしのノートからの選抜、抜粋、改訂であり、この辺でまとめたいが、なかなか進まない。

 

 わたしの過去の芸術関連の記事もこのノートを下書きとしているものが多いので、逐次、参考を提示する。

 記事「ピッチ。律、倍音」もこのノートによっている。

 

 つづく