天下布武は最初から不可能であった | コリンヤーガーの哲学の別荘

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30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 昔から、「本能寺の変」の明智光秀の動機が諸説をもって議論されてきました。「怨恨説」「権力欲説」「朝廷黒幕説」など、様々な説が飛び交ってきました。

 これについて、それぞれも論客がいらっしゃり、それらの説の優劣はわたしの論ずることではないし、門外漢のわたしが口出しするとところではないのですが。

 

 ただ、多くの議論が見落としているのではないかと思うことを書いてみたい。

 

 秀吉と信長、光秀と信長、この関係にはもともと微妙な差があった。

 

 秀吉は、大事なところで主君信長の命令に背いている。代表的な例として、

 

 一つは、天正5年(1577年)に、上杉氏と対峙する北陸方面軍の柴田勝家の与力を命ぜられたが、作戦をめぐって秀吉と勝家は対立して、秀吉は勝手に兵を引き上げてしまう。勝家は上杉軍と闘い、手取川で大敗北をきっするが、この敗北は「背水の陣」を採用した勝家の軍略上の「愚の骨頂」に帰するのだが、勝手に撤退した秀吉は信長の怒りを買う。この危機は、同時期に、大和の国の信貴山城で謀反を起こした松永久秀の討伐戦の主力を秀吉が務めたことにより、信長に「不問」にされる。

 

 もうひとつは、天正7年(1579年)に、摂津の荒木村重の謀反により村重に翻意の説得に行った黒田官兵衛が逆に幽閉されることとなり、信長は官兵衛を裏切りと看做して官兵衛の子を殺害するよう秀吉に命じたが、秀吉はこれに従わず、信長に告げずに官兵衛の子を隠してしまう。有岡城落城後に黒田官兵衛は裏切っておらず、幽閉されていたことが明らかになり、秀吉の行為は「不問」とされる。

 

 これに対して、本能寺の変に至るまで光秀は、信長の命令にとても「従順」であり、「比叡山焼き討ち」も光秀が主力を勤めている。丹波計略を命じられながら、石山合戦への参戦など天正年間における光秀の行動は信長の意思に従って多大なる活躍を見せている。

 

 光秀は、「いくさ上手」と呼ばれ、「力攻め」を得意としていたといわれる。これに対して秀吉は、主として諜略を駆使したほか、土木技術による奇抜な戦法に長けていた。二人の違いはわりと分りやすいと思うが、共通項も見出せる。

 

 実は、本能寺の変直前に、秀吉は備中高松城の水攻めの最中だが、敵将清水宗治との停戦交渉では、秀吉側の条件は、清水宗治支配地域の織田家への帰属であって、毛利氏との全面和睦などではない。秀吉は主君信長の「力攻め」による相手の殲滅を嫌っていたとわたしは思う。

 これは光秀も同じで、秀吉の中国攻めの与力を命じられて、同時に近江、丹波の本領を採り上げられ、「石見、出雲切り取り次第」との言葉を信長から聞くに及んで、謀反への誘惑に駆られたという説が昔から語られる。

 

 だが、室町後期から戦国期において、このような信長の「力攻め」すなわち「天下布武」が本当に人々に望まれていたのであろうか?「人々」といったのは、庶民、百姓のことであるが、信長軍団の兵農分離といえどもその兵もまた百姓出身であって、兵農分離は、軍功に対する現金収入で見返りを得ることに支えられる。だから土地を相続できない百姓の次男、三男とか、戦乱の孤児らにとって「足軽」は手っ取りばやい就職先であった。ここのところは信長の将来にとって大いなる限界を示すものであると思うのだが、そのことの意味をわたしなりに説明したい。

 

 天正年間の信長の天下統一の戦略は、京都を中心として配下の家臣に、方面軍司令官を地方に派遣するというやり方で、関東方面に滝川一益、北陸方面に柴田勝家、中国方面に羽柴秀吉、東海は徳川家康という布陣である。この布陣が完成するのは、天正8年の「石山合戦」の決着においてである。ここから信長の死(天正10年) まで2年しかない。

 

 この信長の「天下布武」への布陣は、将棋の戦法としてはさながら「飛車角金銀」を全方位に張り巡らせた「鉄壁」の布陣に思えるが、それは戦争を単なるパワーゲームと見る見地に立った場合である。柴田勝家の最大の与力であった前田利家は、与えられた加賀における一向宗との関係において、主君信長と違って一定の融和策を採用している。それは信長の武力統一という戦略上、「現地調達依存」が避けられないからである。

 つまり、兵農分離といっても所詮その「兵」は現地調達であり、その「兵」を安定的に確保するには各方面に派遣された武将は与えられた「領地」の安定的な穀物生産や工業製品の生産の保証をなし、自分の領地の安定と経済秩序の維持を図り、自分の「領地」で一揆などにより「静謐」を脅かされてはならず、百姓が安全に耕作し、ゆえに兵農分離による戦闘集団に対する「賃金保障」を実現する安定した「税収入」が見込めなければならない。信長の各方面軍の動員力を集めれば10万を超える大軍を集めることができたであろうが、その兵は、全員尾張、美濃からつれてきた「精鋭」ではなくて、多くは現地調達に依存していた。

 このような状況で、信長の軍団を構成した各地の武士たちが、そこに参加する動機は、信長を次の天下人として「尊敬」し「追従」していたというよりも「食うために現段階これしかない」という思いで、本来なら人の命を奪う「兵」ではなく、「鋤や鍬で畑を耕して生きれるものならそうしたい」と思っていたはずである。

 

 信長が光秀に琵琶湖の西の近江半国を与え、坂本城を築城させたのも、「比叡山焼き討ち」のマイナスの後遺症を絶つためという主目的が最大の課題であったと思われる。現在でも、京阪電鉄坂本駅からケーブルで比叡山山頂まで登ることができる。坂本駅からケーブルの乗り場まで、永遠と続く数々の寺院を見る時、焼き討ち以前の坂本が叡山の僧侶や僧兵の拠点であったことがわかる。焼き討ち後も反信長感情の残るこの地を領土として治める困難を克服して、この地から「兵」を現地調達し、動員して1万の軍勢を組織するには、相当の領国家経営によって、光秀に対する領民の信頼がなければできないことであり、そのような苦労をして作り上げた明智軍団が、丹波を平定してまもなく「領地召し上げ、石見、出雲切り取り次第」といわれたということは、軍事的には石見、出雲の「毛利の息の掛かった」国人たちを打ち破りながら、ゴールは、占領した異国の現地の安定を図る「地方政治」を実現して、領民から信頼を得て初めて可能になる「1万を越える明智軍団の兵力を再調達する」ところにある、と光秀は思ったであろう。

 

 実は、この信長の戦略自身がすでに限界を迎えていたとわたしは思う。実は信長以前にも以後も、日本の歴史で武力だけで全国を統一した人物は一人もいない。関東に朝廷から相対的に独立した武家政権を樹立した源頼朝も、武家社会の2大潮流にたる源氏と平氏の対立と、古い権力たる朝廷と、朝廷内の対立のバランスに決着をつけたに過ぎない。何も頼朝が大軍を率いて全国の国人を打ち負かしたのではない。足利尊氏も、幕府執権北条氏の政に対する反発と、朝廷の分裂を利用して京都に幕府を開いたが、尊氏自身が全国津々浦々に兵を率いて「武力占領」したわけではない。特に京都に拠点を移したことで、源氏の本拠たる関東の支配権を中央集権的に確立できず、鎌倉(関東)公方と関東管領を設置せざるをえなかった。

 

 これに比べると、信長の統一戦は、圧倒的に敵勢力の「殲滅」であって、美濃の斉藤氏、越前の朝倉氏、北近江の浅井氏、甲斐の武田氏を滅亡に追い込み、摂津石山本願寺は事実上の武装解除によって勝利している。

 この信長の支配権は、天正年間に達成されているが、よく考えてみれば、日本地図で言えば、京都から日本全体の半分に末たない距離を確保したに過ぎない。信長を「天下統一を目前にして本能寺に倒れた」というのは言い過ぎで、本能寺の変がなければ信長が天下統一を果したかどうかは甚だ疑問である。

 

 戦国時代というのは、本当に庶民が自分たちの時代が「戦乱の世」であると思っていたかどうかも疑問で、それは実体としては室町殿の権力弱体化による「地方群雄割拠」ということである。それは鎌倉や室町のような「統一政権」の不在を意味していて、地方の戦国大名による「分権」が現実である。この分権化が全国的に、庶民や百姓に「不幸」な戦乱に巻き込んでいたかどうかは簡単に答えの出せるものではない。その例として、関東後北条氏の関東8カ国における内政は、庶民の保護にも徹していて、後に秀吉が行う「検地」(税収の公平性を保つ意味がある)は、北条氏が関東で行っていた「検地」を参考としている。

 わたしは、「本能寺後」の信長の統一戦は、転換を求められていたと思う。それは「統一政権構想」の構築である。「群雄割拠」を終わらせた後、「天下静謐」を実現する青写真がはっきりしない。

 

 秀吉も信長の「天下布武」には内心疑問を持っていたと思われる。秀吉が「中国大返し」によって得たのは、信長を継ぐ天下人の一番手に名実ともにのし上がったことだが、信長により、「中国方面軍司令官」となったことによって、秀吉はその人望を「毛利に承知させた」ということの方が、その後の秀吉の天下統一に大いに貢献していると思う。秀吉は、四国と九州平定の方法論を信長の「天下布武」から路線転換して、毛利の軍事力を取り込むことで、相手を屈服させ「主従関係」を結ぶことで達成している。敵の「殲滅」ではないのである。

 

 本来室町幕府の再興を夢見て信長を担いだ光秀にしてみれば、もともとの目標は、「戦乱を終わらせる統一政権」の復興であり、何事につけても「軍事優先」の信長の「統一戦」には「政治の欠如」が明らかに見えていて、信長が無防備で自分の前に現れたことは偶然に過ぎず、主君に対する根本的な疑問がもともとあったと考えられるのではないか?

 

 一方秀吉が光秀のような「謀反」のチャンスに恵まれてもおそらく信長を討ち取ることはなかっただろう。 黒田官兵衛の一件に見られる信長への「反抗」は秀吉もまた信長の限界を冷静に見ていた証拠と思われるが、「天下平定」には、大義名分に支えられていることを条件とすること理解していたから、信長の下で実力を貯めることを第一とした。それは「あわよくば」自分が天下を取るチャンスに備えておくということである。秀吉は、結局支配権とは「権力者として領民からの支持される」ことが前提であることをよく知っていて、中国大返しの際も、柴田勝家との決戦直前の岐阜城から北近江への「大返し」でも、真夜中に街道沿いに百姓を動員して「かがり火」を炊かせ「握り飯」を用意させているが、こういう命令は領主秀吉への大衆の支持がなければできない。

 

 わたしが考えるのは、本能寺の変の原因が、光秀の個人的な決意や心情に関わるものとしても、このクーデターの根本的な原因は信長の「天下布武」の路線的破綻を意味しているということです。

 

 信長の兵農分離もまた、大きな課題を内包していた。世の中が平和になり、「戦争」が少なくなると、「兵」の必要性は後退する。なにも生産せず、何時あるか分らない戦争のために常備兵を温存させるその兵の「禄」をどう調達するのか?。戦乱が終われば「兵農分離」から「兵農一致」へと回帰しなければ労働力の無駄である。全国を統一した秀吉は、もはや戦争の結果の褒美を与える「領地」がなかった。よって朝鮮に軍を向けて、現地を「切り取り次第」としたのだが、国外に軍隊を駐屯させて、その兵の食い扶持を維持するには、日本から食料を送ることは長くは続かず、現地調達に頼ることとなり、つまり軍事的に他国を支配するだけでなく、現地から安定して税収を獲得するための現地の「政治支配」が必要になる。加藤清正も小西行長も現地では軍事的に圧倒していたが、朝鮮半島の政治的支配が欠如している状況では「兵糧」はジリ貧ということになり、占領は長続きしない。第2次大戦の太平洋に軍を進めた日本軍は、愚かなる大本営が、「ジャングルの地図に、勝手に穀倉地帯を夢想して、食料は現地調達できるというとんでもない思い込み」によって補給をおろそかにした結果、多くの日本兵が「飢え死に」している。

 

 秀吉の天下統一の達成のころ、日本の経済に見合うものとしての「兵力」はすでに過剰であり、よって「検地」と「刀狩」を実施するのだが、それは多くの庶民に、「兵として生きる」ことを断念させるという意味で、失業を迫るものであったが、結局徹底できない。秀吉の統一に貢献した武士への待遇を簡単に切り捨てることができなかったのである。

 

 この問題は、関ヶ原という日本を二分する戦いによって、家康が偶然武士の半分を「失業」に追い込む幸運に恵まれることで、かなり解消される。

 

 信長の「天下布武」にはかなり無理があって、光秀も秀吉もうすうすそれに気がついていた。秀吉は、気がついていたけれども、「己の保身」は「人について行く」ことであると自覚しており、光秀には信長以上に旧体制の美しき「まつりごと」に「憧れ」が付きまとっていて、これが二人の命運を分けたということだろうか?