ニーチェの言葉 より 21 『曙光』より その2 | コリンヤーガーの哲学の別荘

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30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

  引用

 

 八五

 

 不足の中にある精巧さ。 ―ギリシア人の神話が諸君の深遠な形而上学に匹敵しないからといって、軽蔑してはならない! その鋭い知性にまさにここで停止を命じ、スコラ哲学や、理屈をこねる迷信の危険を回避する如才なさを十分長い間所有した民族を、諸君は驚嘆すべきであろう。

 

 八六

 

 肉体のキリスト教的な解釈者。 ― とにかく胃や、内臓や、心臓の鼓動や、神経や、胆汁や、精液に原因を持つものが何であろうと― あのすべての不機嫌や、衰弱や、過度の刺激や、われわれにとっての機械の偶然性の全体! ―これらすべてを、パスカルのようなキリスト教徒は、そこにひそむのは、神か悪魔か、善か悪か、救済か地獄行きか、とたずねることによって、ひとつの道徳的、宗教的な現象と考えざるをえない!おお不幸な解釈家ときたら!彼はどんなに自分の体系を折り曲げ、苦しめなければならないことだろう!どこまでも正しいためには、彼はどんなにわが身を折り曲げて、苦しまねばならないことだろう!

 『曙光』  フリードリヒ・ニーチェ 著  茅野良男 訳 

『ニーチェ全集』 第7巻 理想社 87~88頁

 

 引用

 

 「偉大さ」と「惨めさ」が背中合わせになった人間存在の「不可解」の理由が解き明かされるが、そこで「私」の名において語っているのは、「神の知恵」である。

 

『哲学の歴史』 5 「パスカル」 責任編集 小林道夫  中央公論新社 372頁

 

 パスカルが生きていたのは1623年から1762年であり、ニーチェのバスカル批判は、当人には「酷」というものであろう。人間存在の「不可解」は、いくら科学が現実を説明しても、回答が得られるものではない。たとえばわたしたちが存在している意義は、わたしたちが勝手に納得する主観的な回答である。自分の存在意義など答えはない。命を得て、死ぬのが「恐い」という感情が当然あるけれども、命を授からなければ、「死」を意識することもないのです。

 

 よって「神」が想定される。この愚かさをニーチェは嘆くのです。

 

 ブログ記事「ニーチェの言葉 より 21 『曙光』より その1」でも述べたのですが、近世の科学の復興と隆盛は、不断に「宗教」を克服していくのではあるけれども、その主役たちは、古い「宗教観」を抜け出せないまま、自らの「宗教」の根拠を否定する努力をしていた。

 

 引用

 

 自然はこれらのものを生み出さねばならぬかをしめしながらという意味であるが、それには私はまだ十分な知識を持っていなかったから、一箇の人間の身体を、その諸機関の内部構造において、その各部分の外形においても、私どものひとりに全く似かよった人間の身体を(ニーチェの『曙光』からあえて引用挿入する。『肉体のキリスト教的な解釈者。 ― とにかく胃や、内臓や、心臓の鼓動や、神経や、胆汁や、精液に原因を持つものが何であろうと―)、私の述べた物質以外のものを持って組織することなく、そのうちに、最初には理性的精神とよばれるもの、植物的精神または感性的精神とよばれるもの、そのいかなるものを注入することしなく、神はかかる人体を作ったと仮定してみずから満足した。

 

 『方法序説』  デカルト 著  落合太朗 訳  岩波文庫  60頁

 

 パスカルより27年年長のデカルトだが、キリスト教的世界観たる「神がすべてを、人間さえも作った」という前提は、デカルトの中では懐疑を向けるべき神話であった。この点

 

 ギリシア人の神話が諸君の深遠な形而上学に匹敵しないからといって、軽蔑してはならない! そのその鋭い知性にまさにここで停止を命じ、スコラ哲学や、理屈をこねる迷信の危険を回避する如才なさを十分長い間所有した民族を、諸君は驚嘆すべきであろう。

 

 とするニーチェの指摘は、パスカルの「善悪」議論への批判として卓見であるし、なによりも近代理性をもう一度信仰に従属させようとするパスカルの限界に比べ、デカルトの「懐疑」はスコラ哲学への痛烈な批判を根拠としている。

 

 「諸君の深遠な形而上学」

 

 というのはキリスト教の教義を指し、ギリシアの復興としての偉大な哲学の再登場に右往左往して言い訳を体系化する「スコラ」哲学というのは、じつは中世ヨーロッパのカトリックの断末魔の表現である。しつこいようだが、前回のブログから引用する。

 

 

 中世ヨーロッパで忘却されていたアリストテレス哲学は、イスラム哲学者によって大切に保存発展させられ、1500年のときを超えて、13世紀ごろ再びヨーロッパに復活する。おそらくそれは流行ではなく、アリストテレスがそれだけ素晴らしい体系への可能性を秘めているし、その不十分や、不整合をもってしても、真理に近づく道を導出しているという事である。哲学者とはこうあらねばならぬ。

 

 引用

 

 『神学大全』の最初の設問(『大全』1.1)において、トマスは「聖なる教え」(サクラ・ドクトリナとはいかなるものか、またいかなる範囲に及ぶか」という問題を取り上げ。10項を費やして詳論している。何が問題であったのか。

 最初に吟味しているのは、哲学的諸学問のほかに別の教えを持つことの必然性(『大全』1.1)である。哲学的諸学問とは、自然理性を原理とする知的営為の所産にほかならない。アリストテレスの哲学がその典型であって、自然学、形而上学、倫理学等々の諸分野を包括している。このうち形而上学は、存在しているものであるかぎりの存在しているものを対象とするものであり、中でもそれに含まれる、万有の第一原因としての神的存在を対象とする神学は、哲学的諸学問の最高位を占める。そのため、哲学の一部門とされる神学と従来からのキリスト教神学との調整する必要が生じた。あらためて聖なる教えに属する「神学」のありかたを模索しなければならなかったのである。

 

『前掲』 436~437

 

 問題は、パスカルやデカルトの歴史的意義を、ニーチェの視点で批判するという姿勢が実はニーチェ以外にほとんど存在しないということである。ニーチェは、有名な「神は死んだ」という言葉によって誤解される。彼は「神を否定した」と。しかし「神は存在しない」ではなく「死んだ」というのは「かつて神は生きていた」という事を含意するということに留意しなければならない。神が死んで行く過程に、デカルトは懐疑を媒介して真理への別の道を模索し、近代史における数学的明晰頭脳のパスカルが、数式を解く己の理性の根拠を中世的信仰への回帰に模索する時代錯誤を疑うことなく信じようとした。

 

 今日、わたしたちの世界にも「新興宗教」というのがさかんに設立され、そして滅ぶが、「神」を信じるということとの本当の「決別」は人間には極めて困難であることを示している。

 

 宗教と決別しようとして、いくらニーチェ的なニヒリズムに憧れても、職場や家庭での人間関係では、ほどほどの理性、ほどほどの倫理なしに生きて行くのは難しく、よって理性の命ずる人としての道徳観を、ニーチェのように一切拒否することはできない。これが日常である。

 

 山奥にこもって、仙人にでもならない限りニーチェ的思想を体現する生き方は不可能である。

 (余談 こういう思いでマーラーの交響曲「大地の歌」を聴くべし)

 

 ニーチェがさかんに読まれるのは、その魅力的な価値観ではあるが、彼の「超人思想」ないしプラトンの「哲人思想」は宗教的絶対者の空白を埋めるための「神がかった人間」の待望論で、そこに思想が完結していない限界を読み解いておかないと、その魅力にまみれて埋没してしまう危険を孕んでいるのです。

 

 よって、ニーチェのパスカル批判は、的を得てはいるけれども、批判されているパスカルの姿勢にわたしたちが学ぶものはないとするのは早計であろう。デカルトでさえ「神の存在証明」にあくなき努力を続けたのだから。

 

 ただしデカルトにおける「神」はすてにキリスト教の「神」とは決別していることが大事な点です。

 

 つづく