音楽を「華麗」ということばで説明するのは難しい。というかある形容詞は、らしき表現で、そもそも極めて主観的なのです。「華麗」なる人生として華々しい、例えば「映画スター」の人生を物語れば、それはそれなりに「華麗」なる形容を伝えることはできよう。
器楽たる交響曲の評価にまつわる形容は、実は主観的な感覚に属するはずだが、唯一調性の「性格」が手がかりになる。
ハイドンの交響曲99番の序奏の最初の主和音と、提示部の最初の主和音が、変ホ長調であるということに、「華麗」「流麗」「軽快」などの形容がふさわしい批評の言葉とわたしは思う。
変ホ長調という調性の性格だろうと思う。
ベートーベンの交響曲第3番『英雄』交響曲、とピアノ協奏曲第5番『皇帝』
モーツァルトの交響曲第39番
リヒャルト・シュトラウスの交響詩『英雄の生涯』
変ホ長調の主和音は「華麗」かつ「気品」があって、そのゆっくりとした出だしに続くリズミカルなパッセージに「軽快」を導くのです。
ところが、この「軽快」を利用して、第1楽章のフレーズごと、小節ごとの、同主調の変ホ長調と変ホ短調の目まぐるしい展開は素晴らしく、第2楽章の静寂でもこの展開と、平行調への移行が伴って、転調の「技」はけっしてロマン派に劣ることがない。
第3楽章のメヌエットも細かな「転調」がハイドンの天才を感じさせるし、結局ロマン派の情緒は、ハイドンやモーツァルトが準備したのであって、音楽史は連続しているという実感は、ハイドンを聴かないとわからないことである。
第4楽章も上記の思想で進行していく。
後の、後期ロマン派の半音の多用という事態は、こうして試されていたのである。
マーラーは、ウィーンの王立歌劇場のコンサートで、ハイドンの交響曲第104番 ニ長調 『ロンドン』をさかんに採り上げている。この意識は、交響曲の父「ハイドン」への尊敬であろうと思う。
バッハ、ヘンデルの時代、一曲とは「5分以内」の枠でしかなかった。2時間を越える「マタイ」も「メシァ」もそういう小品の連続である。30分の交響曲をひとつの一貫性を持たせて聴かせるというのは、ハイドンが始めてなしえたことで、そこに30分間飽きさせないための、転調と管弦楽法がなければならなかったのです。
続く