引用
〔口頭説明1〕 §99で述べられたように、数学では普通、大きさというものが増加も減少もできるものとして定義されます。その根底にある直観の正しさについてはなんの異議もはさむ必要もないが、にもかかわらず、わたしたちがどのようにして増減できるものをとらえるにいたるかは、問題として残ります。この問いに単純に経験を引きあいに出すだけでは十分でない。経験から得られるのは大きさのイメージだけで、大きさの思考ではないのだし、それを別にしても、経験的には大きさが可能として(増減できるものとして)示されるだけで、増減がおこなわれる必然性についての洞察は得られないのですから。
これにたいして、わたしたちのような論理的発展の道をたどれば、量が自己を明確にしていく思考の一段と示されるだけでなく、量の概念のうちにきっぱりと自分を超えでていく働きがあることが示されるので、増減の可能性だけでなく、必然性をも問題にすることができます。
『論理学』 ヘーゲル 著 長谷川 宏 訳 作品社 238~239頁
量を観念できるのも人間だけである。なぜなら数学を手にし、数えるのは人間だけである。よって量の具体的イメージを、数という「抽象」において形式化できるという精神が、「神」存在の証でもある。この場合「神」とは宗教上の「神」ではなく、哲学の「神」である。
しかし人間以外の自然も、感覚的には量を観念できる。
引用
これくらいで三部咲きぐらいなのでしょうか?
でも昨日より、花びらが開いています。
このお花の命は、いま生きている。
この瞬間花を咲かせて、美しい色と香りを放つのは、
昆虫に来てもらって、受粉し、子孫を残す崇高な行為の瞬間なのです。愛の瞬間です。
植物は、異性に自分の魅力を披露するのではなく、異性のもとに種を運んでくれる使者に向かってアピールする。運んでくれるのはアピールに関係ない「風」の場合もあるが、それでは種の保存としては確率が低いので、においが樹液のあることを虫たちに知らせて運んでもらうと言うことを思いついた。自然は何と偉大なのでしょう。
このお花は、生きていて、賢明に命を繋ごうとしている。
本当は、梅の木と一体の自然にあって、受粉して非常に少ない確率だが、別の梅の木になることのできる次世代が、そのなかのほんの一部だけどある。ほとんどは報われないがこの多量の犠牲が無ければ「梅」と言う種は滅んでしまうのです。
その枝を切り落として、わたしを和ませるだけで、部屋のなかで受粉は訪れず、この花は朽ちる。
だから、わたしにはこの花が朽ちるまで、毎日水を替えてやる義務がある。
それが生きものに対する礼儀であり、その行為が幸福な「労働」なのです。
電子ビアノの上においているのは、撮影用で、ずっとおいているわけではない。この構図は私の精神構造を示しているだけです。
明日のこの梅の花はどうなるのでしょう。
水を替えてやったわたしの行為に答えてくれるでしょうか?
こういう花との「まじめな」関係を、社会に出て仕事に生かすのです。相手のして欲しいことをこちらから見つけて先にやってしまうのです。時々失敗しますが、ずっと付き合っていれば「伝わり」ます。
私生活の充実が大事なのです。
当ブログ 2018年2月17日記事より
花、植物が数を数える知性があるとは思わないが感性として「量」を理解している。花の遺伝子は、受粉を実現する可能性をつまり確率を高める(という「量」概念なしに思考し得ない「高める」という目的に向かって)ため、美しい色香と、芳しい臭いを放つ生態を持つために、世代を重ねてきた。種の保存のために
異性に自分の魅力を披露するのではなく、異性のもとに種を運んでくれる使者に向かってアピールする。
数学を理解しない花の遺伝子が、生き残る確率を意識していて、ゆえに受粉の実現のために、私たちわたしたちに美しい花としてわたしたちの精神を慰めるといことは、かつてわたしたちもこの花の遺伝子の祖先たるもの、つまり地球の海にしかいなかった単細胞生物の原初的遺伝子を同根として持っているという同一性の証明である。数を数え掛け算をするという思惟を持たない植物が、種の保存の確率を高めるという目的に向かって自らを進化させるということのなかに、純粋形式としての「量」を捉えることなく感性形式として「量」を意識しているということである。植物もまたより多くの子孫を残すという合目的的存在であり、その目的の中に、数学的演算によらない「確率」は意識されている。
人間は、この数学的によらない自然の「確率」を数学的な形式として理解するが、その本来の目的が数学的な思惟を理解できない自然にも付与されていることを認めず、ゆえに人間はもっとも傲慢な種である、これは実に驚くべきことである。
種の保存のための確率を高めるため努力した結果、他の種に魅力的な花を咲かせ、生命の力の限界の期間として、たった1週間ほどで枯れてしまうが、その瞬間に他の種を魅了して、自らの種の保存を実現するという神秘の「命の受渡」を体現している植物の精神こそ、わたしたち人間の精神を実現する根拠であると思う。
数える能力のない花の意志は、数えられない能力の限界を超えて数えることの意味を知っていて、よって「確率」を高めるという「目的」が自分の「生命」の「永遠」を保証することを知っていた。生命は「個体」の維持に執着するが、個体としての限界を意識しており、その限界は、自己の「複製」たる種の保存にあることを知っている。そのためには、他の種を上回る生命力を実現するという意味でライオンのような「強さ」に帰結するが、一方で、花のような美しさを極めるという道程もあり、すべては種の保存の可能性を追求している。その花の美しさの表現がライオンのような「強さ」だけが進化の目的ではなく他の種を「魅了」して他の種の力を借りる「強さ」もまた、わたしたちの精神に刻印されている美意識に働きかける。これが「感動」であって、「感動」とは人間の主体性によりのみ完成するのではなく、人間と同根の遺伝子との、はるか何十億年前にさかのぼるその遺伝子との同一性の「再会」としてある「感動」ではないのでしょうか?
前回の記事「ニーチェの言葉 より 21 『曙光』より その2」から、もう一度デカルトから引用しておきます。
引用 自然はこれらのものを生み出さねばならぬかをしめしながらという意味であるが、それには私はまだ十分な知識を持っていなかったから、一箇の人間の身体を、その諸機関の内部構造において、その各部分の外形においても、私どものひとりに全く似かよった人間の身体を(ニーチェの『曙光』からあえて引用挿入する。『肉体のキリスト教的な解釈者。 ― とにかく胃や、内臓や、心臓の鼓動や、神経や、胆汁や、精液に原因を持つものが何であろうと―)、私の述べた物質以外のものを持って組織することなく、そのうちに、最初には理性的精神とよばれるもの、植物的精神または感性的精神とよばれるもの、そのいかなるものを注入することしなく、神はかかる人体を作ったと仮定してみずから満足した。
『方法序説』 デカルト 著 落合太朗 訳 岩波文庫 60頁
余談 こういうところで人間の「理性的精神」という言葉を「植物的精神」と同列に扱えるデカルトの聡明。 この延長が人間の精神である。
「量」を考える時、量を観念できない人間以外の生命に、自らの生存を賭けて生きる意思には、「量」概念が、感性的に刻印されていることを認めねばならない。人間が「量」を意識するという思惟を持っているのは、人間の独自性ではなく、「量」は人間以前の自然に「実在」している。人間はそれを「概念」に置き換える能力を持って「自然」と区別されるが、概念は常に「自然」に実在している事実の「抽象」にすぎない。ヘーゲル論理学は、単なる「観念論」ではない。
よって自然の実在に根拠を求めるデモクリトスの唯物論は「正しい」。
自然を超えて「社会」を基準として、その不条理を告発するエンゲルスとレーニンの唯物論は、人間主観を根拠とするから「誤り」である。
共産主義者よ。おまえたちこそ「観念論」である。
つつづく

