過去の町割を踏襲する地方都市
過去の町割をほぼ踏襲している名古屋城下。今回は、そこから現代のモビリティの役割について考える。
『天明以前名古屋図』。赤枠の部分が碁盤割の町人地(画像:名古屋市鶴舞中央図書館) 日本には、全国至る場所に城下町がある。城は江戸時代、一定の石高(こくだか。米の収穫高を示す単位)を満たした領地を持つ大名に、持つことが許された。基準は諸説あるが、歴史学者の山本博文氏は、「2万石以上でないと城は持てず」(『古地図から読み解く城下町の不思議と謎』実業之日本社)としている。城を持つ者を「城持(しろもち)大名」という。
城持大名たちは、城を中心に町づくりを行い、城下町を築いた。城下町にはさまざまなタイプがあるが、共通しているのは武士の屋敷が城を囲み、その外を庶民が住む町人地とする。さらに、町の外れに寺を置く。武士・大衆・僧侶ごとに、居住するエリアを区分した町割(まちわり。区画)である。現在の地方都市は、この町割をほぼ踏襲しているケースが多い。
過去がそのまま活用されているのは、先人たちのレガシー(遺産)が現代に通ずるほど有益だったからに他ならない。今回はそうした中から名古屋城下を取り上げ、現代のモビリティにどう生かされているかを見てみよう。
「尾張名古屋は城でもつ」
右上に江戸時代の名古屋城が描かれた図絵。『尾張名所図絵』(画像:国立国会図書館) なぜ、名古屋かといえば、2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公・徳川家康が整備した城下町が存続しているからだ。
「尾張名古屋は城でもつ」
と、民謡『伊勢音頭』にうたわれた。この一節には、名古屋は家康の築いた城によって繁栄したという意味がある。
まず、名古屋城下の歴史について簡単にふれる。家康が天下統一を果たす以前、尾張には織田信長が君臨し、国の中心は名古屋ではなく清須(きよす)だった。
家康は1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いに勝利すると、1603年、江戸に幕府を開く。次いで、江戸と京都・大坂を結ぶうえで重要な要衝だった名古屋を重視し、1609年に築城を開始した。わずか1年あまりで、天下普請(てんかぶしん。諸大名に命じて行った城の建設)で名高い名古屋城が完成した。
さらに尾張の中心を清須から移し、清須城は廃城となる(現在は復元)。これを「清須越(きよすごし)」という。前述の山本博文氏の著書によれば、
「3つの神社、120の寺院、67の町、武士・町人合わせて7万人を強制的に移住」
させた大規模な計画だった。橋までも清須から移築するほどの徹底ぶりだったと伝わっている。こうして城下の基盤が形作られていった。
過去の町割をほぼ踏襲している名古屋城下。今回は、そこから現代のモビリティの役割について考える。
現在の名古屋。文中にある主だった施設を書き込んだ(画像:(C)Google) 家康が整備を進めた城下は、城の東西南北に武士を身分ごとに集住させ、町人は南の武家地の外に、寺は町外れに置く構造だった。これを現在の名古屋市の中心地に置き換えると、まず城の南の武家地。ここにはかつて、城の重臣たちが住んでいたが、今は名古屋市役所と愛知県警察本部がある。
城の北に名城公園、南東には愛知県庁、南西は白壁や土蔵が残る観光スポットの四間道(しけみち)。また、城の周囲には名古屋高速1号楠線をはじめとした高速道路だ。四方に重要な施設や名所・道路が多いことが分かる。
最も注目したいのは、南の武家地の外にあった町人地だ。ここは碁盤の目となっており、こうした区画を「碁盤割」という(1ページ目トップ画像の赤枠部分)。名古屋の町人地の道は、直線になっているのだ。
一方、城下町によく見られる町人地は、道が入り組んでいるケースが多い。これは道を複雑に曲折させることによって、敵の侵入を阻み、城を守るためだった。逆にいえば、いざ戦(いくさ)が起きた時、戦場となるのは町人地だったことを意味する。また、町外れに寺を置いたのは、寺の敷地に自軍が駐屯できる広いスペースが十分にあったからだった。
町人地が戦う場所、寺が軍の拠点、さらに城に続く道は曲折し、敵が容易に城に近づけない。これが城下町の典型的な構造だ。だが、家康はそうではなく、平和な時代の到来を見越して
「利便性や経済活動を最優先とした新しい城下町づくりに取り組んだ」(山本博文氏)
のである。その結果、道は物資が運搬しやすい直線となったわけである。
大勢の人でにぎわう広小路筋。『尾張名所図絵』(画像:国立国会図書館) 名古屋市鶴舞中央図書館が所蔵している『天明以前名古屋図』(1ページ目トップ画像)を見ると、縦横無尽に町人地を貫く道が東西11列、南北9列。区画は実に99に及んでいる。
家康がつくったこの町割によって発展した町人地は、現在の中区へと、長い時をかけて変貌をとげていく。中区丸の内は久屋大通りと桜通り、外堀通りに囲まれ交通の便もよく、栄・大須などのオフィス街や繁華街となり、デパートなど大型商業施設も立ち並んでいる。名古屋の経済発展につながった功績は見逃せない。
また、商業面で成功した例として、いとう呉服店もあげられるだろう。家康は碁盤の目の中央を南北に貫く本町通りに、商人を集住させた。その中から台頭してきたのが、いとう呉服店だ。いわずと知れた松坂屋(現在の大丸松坂屋)の前身である。
舟運の整備もあげておこう。熱田湊(あつたみなと)は尾張最大の船の寄港地であり、商品流通の一大拠点だった。そこで、城の西に堀川(城を囲む堀に水を張った水路)を開削し、水路を熱田湊(あつたみなと)までつなげた。
城郭研究家の加藤理文氏は、「城下町の生活物資の運搬水路として、重要な役割」(『歴史人』2020年5月号「古地図で読み解く城と城下町の真実」掲載「天下人の城」ABCアーク)だったと解説している。
家康以降も成長は続いた。町人地は1660(万治3)年の大火で甚大な被害を受け、焼失した家屋は2000以上に及んだが、時の尾張藩主だった2代・徳川光友(みつとも)が再建に取り組んだ。その際に誕生したのが、広小路筋である。
大火の前は道幅が約5mだったのを約27mと5倍超に拡張し、庶民が楽しめる繁華街にしたのである。芝居小屋や見世物小屋が出店し、名古屋きっての名所となった。今も市の東西を貫く道路であり、地下には地下鉄東山線の一部も通っている。地下鉄は地面の下を掘削するため、土地の権利関係などから道路の下につくることが多いのはご存じの通り。広小路が地下鉄の建設に役立ったわけだ。
家康が築いた名古屋城下は現在まで脈々と息づき、モビリティーズの発展に寄与しているのだ。
●参考文献
・古地図から読み解く城下町の不思議と謎/山本博文(実業之日本社)
・歴史人2020年5月号「古地図で読み解く城と城下町の真実」掲載「天下人の城」/加藤理文(ABCアーク)
編集プロダクション・ディラナダチ代表。1964年、東京都生まれ。スイングジャーナル社、KKベストセラーズなどを経て、2011年に独立。旅行・歴史関連雑誌の編集、執筆を手掛けている。主な担当刊行物に廣済堂ベストムックシリーズ(廣済堂出版)など。Twitter ID:@dylanadachi