本日は、みつまめ忘れじのNBA名選手を回顧する後ろ向き企画、「みつまめNBAスーパースター列伝バスケ」。

 

 第162回は、前回、前々回に引き続き、‟ビッグ・ファンダメンタル” ティム・ダンカン です。

 

 

 師であり盟友の提督デヴィッド・ロビンソンの引退後、ダンカンはサンアントニオ・スパーズの絶対的大黒柱となります。

 

 それはチームに止まらず、2004年8月に参加したアテネ五輪では、アメリカ代表チームでもエースとして頼られたほど。

 実はこの大会で、アメリカはプエルトリコとリトアニアに敗北。決勝トーナメントでもアルゼンチンに敗れ、NBA選手が参加するようになって以降、初めて金メダルを逃すという屈辱でした。

 

 20歳だったレブロン・ジェームズもいたのにチームは大崩れ。悲惨な成績に、プレスは 「ダンカン頼みで彼にボールを回すしか策のない無能な代表チーム」 と、酷評のなかにもダンカンの存在感は際立っていたのです。

 

 とはいえ、スパーズとしては悪いことじゃない。なぜなら、アメリカ代表をキリキリ舞いさせたアルゼンチン代表のエースはエマニュエル・ジノビリであり、彼はスパーズのチームメイトだったのです。

 

 ダンカン、ジノビリ、そしてフランス出身のトニー・パーカーが揃ったスパーズは年々チームが熟成。ダンカンはデヴィッド・ロビンソンが自分にそうしてくれたように、エースの座にこだわらず、彼らに主役を譲ります。

 

 

ダンカン、ジノビリ、パーカー

 

 

 2005年、連覇を狙ったデトロイト・ピストンズを4勝3敗で競り勝ち3度目の優勝。ファイナルMVPはダンカンでしたが、2年後の2007年に若きレブロン・ジェームズ擁するクリーヴランド・キャバリアーズをスウィープで下して4度目の優勝を果たしたさいのファイナルMVPはトニー・パーカーでした。

 

 30歳を越えるころ、ダンカンの個人成績は下降気味。これは衰えたわけではぜんぜんなく、グレッグ・ポポビッチHCの方針で、ダンカンの1試合あたりのプレータイムを減らしたからです。それでもチームプレーが完成の域に達したスパーズにはノープロブレム。

 

 キャリア後半はレブロンとの激闘が続き、2013年・2014年とレブロン率いるマイアミ・ヒートとファイナルで連続対戦。2013年はフルゲームで敗れましたが、2014年はスパーズに若きクワイ・レナードが台頭。彼のブレイクで5度目の優勝を果たしたのです。

 

 

2013年、集大成的な5度目のV

 

 

 大きな故障で一度も長期離脱することなく、2016年、スパーズひと筋19年のキャリアを終えます。引退発表は声明のみで、大々的なセレモニーはいっさいやらないというダンカンらしいものでした。

 

 優勝5回、シーズンMVP2回、ファイナルMVP3回、オールNBAファーストチーム10回、オールスター選出15回と言う華々しい個人成績はもちろん、驚くことに19年のあいだ、スパーズは毎年50勝以上を挙げる文字どおり常勝チームとしてNBAに君臨しました。

 

 引退後は2019年に一度だけ請われてスパーズのアシスタントコーチを務めましたが、COVID禍で一年で辞めると、現在はサンアントニオで車のカスタムショップを経営し、たまにチームのイベントに顔を出すくらいの悠々自適なセカンドライフを送っています。

 

 

 そして2026年。

 ダンカンが去った以後のサンアントニオ・スパーズはリーグのドアマットに沈んでおりましたが、フランス出身、22歳のビクター ‟ウェンビー” ウェンバンヤマが3年目でビッグオーバー。

 

 7ft4in(224cm)という驚異の体躯でオールランドな才能を持つスターの大成長で、今季のスパーズは9年ぶりにシーズン60勝を挙げました。デヴィッド・ロビンソン、ティム・ダンカンが紡いだスパーズにおけるビッグマンの系譜は受け継がれます―