*5月5日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科のぜんざい教授ねこへびと、教え子の院生・あんみつ君ニコの歴史トーク、今回のテーマは戦国時代美濃国。

 

 本日は、斎藤山城守道三 のおはなしです。

 

 

 

 

ホットドッグ左ホットドッグ右 おにぎり ジュース

 

 あんみつねー 「先生、天文十五年(1546)九月、長年争った土岐頼芸(よりのり)と次郎頼充の叔父甥が和睦しました。頼充は斎藤左京大夫利政(道三)の娘婿に収まった翌年、24歳で急死。知行を継いだ弟の八郎頼香(よりたか)は利政に対し不信感を持ったようですね、油断させて始末したんじゃないかと」

 

 ぜんざいねこへび 「そうなると八郎自身も危ない。尾張の織田信秀に支援を求めると、おりしも三河進出を狙った信秀は <小豆坂の合戦→「今川盛衰録⑤」> に敗北して東方を絶たれたところだったので、美濃出兵を強行した。しかし天文十七年(1548)八月のこの戦いは、斎藤利政の快勝に終わる」

 

 あんみつ真顔 「やはり武将としては相当の采配者ですね。織田信秀がここまで敗北を重ねても亡滅しなかったのは、当時の尾張の名目上の国主が守護職斯波氏だったから。戦国とはいえ、この時期はまだまだ足利幕府の支配システムが健在です」

 

 ぜんざいねこへび 「八郎頼香はなお西濃に陣取り抵抗を続けたが、結局敗北し討ち果たされた。この戦いでは土岐頼芸側からも内応者が出ていたようだ。おそらく斎藤利政への疑念が広がっていたのだろう。頼芸側近の守護代斎藤利茂や、兼山城(可児市)を預かる斎藤妙春といった宿老クラスが利政によって処断された」

 

 あんみつしょんぼり 「美濃国主の土岐頼芸からすると、次郎頼充も八郎頼香も目の上のコブだし、それに加担した重臣たちは裏切者です。きっかけが利政への反感にあったにせよ、ここでの利政の処置は取り立てて悪辣非道とは言えないような」

 

 

斎藤道三像(東大史料編纂所)

 

 

 ぜんざいねこへび 「しかし八郎頼香の菩提を弔う名目か、戦乱の責任を負ってのポーズか、利政は父の旧友、日運上人を導師に剃髪し、ここに斎藤道三を名乗る。われわれもやっと言いやすくなった(笑)。守護代斎藤氏の没落で、美濃はまったく斎藤道三の施政に帰することになり、これを見た織田信秀は関係修復を申し出る」

 

 あんみつほっこり 「織田一族の身内からも、守護代の清須や岩倉衆、犬山衆が敗北を重ねる織田信秀の言うことを聞かなくなっていましたからね。信秀家老の平手広秀が交渉にあたり、信秀嫡男の信長と、道三の娘の縁組が決まりました。この娘が先に土岐頼充に縁付けていた、濃姫とか帰蝶とか呼ばれる女性ですね」

 

 ぜんざいねこへび 「天文十八年(1549)二月というから信長16歳、濃姫15歳。濃姫というのは ‟美濃の姫” だから固有名詞ではない。帰蝶というのも中国風すぎる。当時の道三居城だった鷺山(さぎやま)城から輿入れしたことを由来に <鷺山殿> と呼ばれていたというのがもっとも穏当だろう」

 

 あんみつアセアセ 「本 その翌年、天文十九年(1550)十月に道三はとうとう主君土岐頼芸を追放、47歳にして名実ともに美濃太守となりました。すでに実権は道三にあったとはいえ、対外的には大きな秩序破壊のインパクトだったようですね。近江六角、越前朝倉、尾張斯波から京の公家寺社までが混乱動揺しています」

 

 ぜんざいねこへび 「和睦した織田信秀はこのころ病床にあり、尾張国内の反対勢力との対立もあるから、もはや美濃への脅威はない。越前でも朝倉孝景が亡くなり、代替わりした義景はまだ18歳。六角定頼も京都から亡命していた将軍足利義藤(義輝)を匿っており、美濃どころじゃない。機会としてはこれ以上ないタイミングだった」

 

 あんみつぼけー 「追放された土岐頼芸は、妻の実家である六角を頼ったようですね。六角定頼が亡くなったあとは甲斐の武田信玄の庇護を受けています。痩せても守護、ということでしょうか。天正十年(1582)三月の武田滅亡時に織田軍の捕虜となり、またしても助命されて美濃帰国が叶った同年没しています。享年81」

 

 ぜんざいねこへび 「土岐頼芸を追ったとはいえ、美濃全土を道三が支配できたわけではない。守護職というのは一国の徴税権(守護役)や警察裁判権(検断)、事務(遵行)を公認される存在だから、守護でも守護代でもない斎藤道三がそのままテイクオーバーできるわけじゃないんだ。直属の家臣も堀田道空や春日丹後など、小説では有名だけど、よく事績がわからないくらい心許なく数少ない」

 

 あんみつうーん 「本 京都から近い美濃は、とくに足利幕府の直臣である相伴衆や外様衆が多かったんですね。土岐氏の分家筋のほか、遠山氏(金さんの先祖)、佐竹氏(のち常陸の宗家に合流)、そして西美濃三人衆と呼ばれる稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全が独立を保っていました」

 

 ぜんざいねこへび 「道三の武威を頼ったか怖れたか、従属した豪族もある。竹中重元(半兵衛の父)は有力な側近になったし、徳山(大野郡)・根尾(本巣郡)・鷲見(すみ,郡上郡)といった北美濃方面の武将は道三に帰順していた。もちろん形勢次第で反服するから、常に強さを示し、施しを与えなければならない連中だ」

 

 あんみつもぐもぐ 「当時から隣国の評判が悪かったのは、道三が力づくで美濃国主になったのが異例だったからなんですね。乱世とはいえ畿内の三好とか細川はいちおう足利将軍家を神輿にしてたし、武田や今川はレッキとした守護職。北条氏はもともと相伴衆のうえ、名目的には鎌倉公方を立てていました。上杉謙信が関東管領職を欲したのも越山の正当性のためです」

 

 ぜんざいねこへび 「そうした情勢で道三に心を寄せたのは、娘婿である若き織田信長だった。父信秀は天文二十一年(1552)三月に42歳で亡くなり、19歳で家督を継いだものの、同族内の争いで那古野城の保持すら覚束ない状況だ。道三は信長の器量を見ようと、直接の対面を申し込む。史上名高い <聖徳寺の会見> だ」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 戦国の世とはいえ、足利幕府の支配体制が残る天文年間において、実力で守護職を追い美濃国主となった斎藤道三は異質な存在であり、隣国の脅威と嘲弄の的でした。

 

 次回、斎藤治部大輔高政 のおはなしです。

 

 

 それではごきげんようねこへびニコ