*7月19日付記事 の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科のぜんざい教授ねこへびと、教え子の院生・あんみつ君ニコニコの歴史トーク、今回もEメールでのやりとりで、テーマは 「駿・遠・三の太守」 戦国大名今川氏。

 

 本日は今川義元の章、三河忿劇(そうげき)のおはなし。

 

 

 

 

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 あんみつにひひ “先生、天文十四年(1545)、今川義元は駿河・遠江全土を掌握し、ようやく最たる安定を得ました。将軍家の連枝という名家に生まれたボンボン大名どころか、ここまでエラい苦労です。外交に内政に奔走しました”

 

 ぜんざいねこへび “北条氏康が武蔵、武田晴信が信濃にと、駿河から背を向けたのが幸いだった。義元は広大な東海道を統治するため、領国内の検地を行い、家臣団を寄親・寄子に編成した”

 

 あんみつシラー “寄親寄子(よりおや よりこ)というと、家臣間を親子に見立てた主従関係ですね。つまり近代の軍隊の師団長・旅団長・大隊長のようなピラミッド型の組織でありながら、命令系統だけでなく、所領や扶持の給与が加わります。会社でなく上司から給料をもらう要領で。だから裏切りや他国への出奔が起こりにくいシステムです”

 

 ぜんざいねこへび “さらに伝馬制という、領内に宿場を置いて通信連絡を迅速に行えるように整え、同時に商業の流通、今でいうハブ&スポークを兼ねさせた。また梅ヶ島金山(静岡市)などいわゆる安倍金山を採掘し、巨万の富を得る”

 

 あんみつべーっだ! “駿府(静岡)、江尻(清水)、掛川、二俣(浜松)など城下町は大いに栄え、商人や公家、高僧が往来しました。義元の時代、今川領は全国屈指の発展を遂げたんですね。京都風の文化が流行るのも納得です”

 

 ぜんざいねこへび “そして次なる義元の野望は三河に向かう。戦国大名の領土拡張において、属国から属国への侵出はたいへん難しいんだが、それを可能にしたのはさっき言ったような、数々の改革の成功のタマモノだ”

 

 あんみつむっ “三河国は、松平清康(1511~1535、家康祖父)の時代に松平氏が統一する勢いでしたが、清康の横死で弱体化、豪族単位で分裂し、尾張の織田信秀の侵攻を受けていました。松平広忠(1526~1549)は義元に支援を求め、子の竹千代(家康)を人質に出して臣従します”

 

 ぜんざいねこへび “だが、竹千代を駿府に送る役目を託したはずの田原の豪族・戸田康光が裏切り、竹千代はあろうことか古渡の織田信秀の元に送られてしまった。広忠に対し、息子の命が惜しければ織田に降伏しろ、というわけだ”

 

 あんみつショック! “でも松平とて、豪族に担がれる小大名。息子を人質に取られても、広忠の一存で今川から離れるわけにいかないから拒否しました。ここで信秀が腹いせに竹千代を斬っていたら、徳川家康の人生は6年で終わったわけですが”

 

 ぜんざいねこへび “のちのちの交渉のタネに生かしておいたのだから、家康は本当に幸運だ。信秀は竹千代の母の実家・水野信元を服属させるのには成功し、本格的な三河侵攻を開始した”

 

 あんみつべーっだ! “松平氏の衰退で小豪族が割拠する三河を舞台に、東西の今川と織田が衝突ですね。天文十七年(1548)三月の 「小豆坂の合戦」 です。雪斎禅師と朝比奈泰能を指揮官とし、松平広忠と連合した今川勢は織田軍を撃破しました”

 

 ぜんざいねこへび “三河侵出を挫かれた信秀は、隣国・美濃の斎藤道三と和睦しダメージコントロールを図る。信長と濃姫の婚姻はこのときのものだ。危機を脱した松平広忠はしかし病に倒れ、翌天文十八年三月に24歳で亡くなってしまった”

 

 あんみつ得意げ “今川の雪斎禅師は西三河まで進軍し、西条城の吉良義安を降伏させ、織田信広(信長庶兄)の守る安祥城を陥としました。ここで信広を捕縛し、織田にあった竹千代との人質交換を提案、竹千代の駿府送りが2年遅れで実現しました”

 

 ぜんざいねこへび “広忠が亡くなり、当主不在だった松平家中は竹千代の帰還に安堵したことだろう。織田信秀は天文二十一年(1552)三月、42歳で病没。尾張は以後内紛に見舞われることになる。こうして三河は今川義元の勢力圏となり、武田・北条との正式な三和も実現したが、天文二十四年(1555)に至り、豪族の大規模蜂起が起こった”

 

 

三河は豪族単位で分裂状態

 

 

  あんみつしょぼん “それが 「三河忿劇(そうげき)」 と呼ばれる反今川の騒乱ですね。織田方だった水野信元や吉良義安だけでなく、かつて松平氏に服属していた奥平とか菅沼といった小豪族も挙兵しました。国外の大名である今川氏に支配されるのがよほどイヤだったんでしょうか”

 

 ぜんざいねこへび “三河には 「触頭三ヶ寺」 といって、本證寺・上宮寺・勝鬘寺は本願寺教団の地方本部だった。これらは不輸不入、つまり大名の支配を受けず課税もされない特権を力ずくで行使していたから、今川義元による検地などの近世的な統治はとても受け入れられるものではなかったのだろう”

 

 あんみつえっ “そういえば、のちに徳川家康も家臣団を分裂させるほどの強大な一向一揆に苦しめられたんでした。豪族・地侍のなかにも信徒があって、彼らが徹底抗戦したんですね”

 

 ぜんざいねこへび “三河の戦乱は、次第に今川義元に従う勢力が強勢となり、弘治三年(1557)になると、15歳になっていた竹千代改め松平元信が初陣している。「元」 はもちろん義元からもらった名だ。永禄元年(1558)、義元はまだ40歳だが、21歳になっていた嫡男の氏真に家督を譲る。駿河からでは遠いので、自ら三河統治に傾注しようと考えたようだ”

 

 あんみつガーン “義元の出座で三河はほぼ平定され、さらには内紛で弱体化した尾張の織田領にも侵出します。この 「駿河を離れて直接乗り出した」 ことが 「世紀のアクシデント」 を招くのですから、歴史とは、人生とはおそろしいですねぇ”

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 駿河・遠江を革新的な政策で安定統治をもたらした義元は三河にもその勢力圏を広げ、「駿・遠・三の太守」 となったのでした。

 

 次回は今川氏真の章、三州錯乱のおはなし。

 

 

 それではごきげんようねこへびニコニコ