*3月31日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科の院生・あんみつ君ニコ、今回は近現代史のしらたま教授オバケとの歴史トークで、テーマは天保の改革周辺。

 

 本日は、南町奉行・遠山金四郎 のおはなしです。

 

 

 

 

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 あんみつぼけー 「しらたま先生、天保十四年(1843)閏九月に天保の改革が挫折したあとも、鳥居耀蔵は南町奉行職を保持していました。偏執狂的に洋学を憎む彼のこのときのターゲットは、砲術家の高島秋帆(しゅうはん,1798~1866)です」

 

 しらたまオバケ 「長崎の町年寄の家に生まれ、西洋の新型兵器を研究していた高島は、アヘン戦争に衝撃を受けて幕府に海防の意見書を出していた。水野忠邦はこれを容れ、高島を江戸に招聘。洋学に強い伊豆韮山代官・江川太郎左衛門に命じて徳丸原(高島平)において臼砲や曲射砲の演習を始めたんだが、鳥居はこれが不満だった」

 

 あんみつしょんぼり 「西洋の武器を使うこと自体が許せない国粋主義的な考えだったんですね。清国が負けたのは太平浮華の油断のせいだと。新奇を好む洋学者はかえって日本の美風にとって害悪と主張しましたが、幕府は海防強化に有益と判断し、鳥居の言を採りません」

 

 しらたまオバケ 「鳥居は長崎奉行所に高島を告発、揚屋(=拘置所)に入れさせた。容疑は密輸、収賄、機密漏洩と事実無根のでっちあげばかり。しかしどれも重罪のうえ、潔白の証明が困難という悪辣なものだ。これを長崎奉行所に伝えたのは。鳥居の手駒スパイである本庄茂平次という男だった」

 

 あんみつえー? 「長崎の地役人から、身を持ち崩して江戸で鳥居に拾われたというヤクザ者ですね。それでも高島は長崎奉行所では無罪になったので、次に江戸に送致させて謀反の罪で自らが取り調べましたが、ぜんぶ無実ですから評定所の決裁が下りずに結局すべて無罪。それでも拘禁が4年間に及んだのは、幕府の海防整備にとって大きな損失となりました」

 

 しらたまオバケ 「そんなとき、前に言ったように水野忠邦が一時カムバックしてきた。憎悪を燃やす水野は鳥居を罷免すると、数々の悪事を明かるみにさらして家禄没収の重い処分。鳥居は讃岐丸亀藩の京極家に永預けとなった。事実上の終身禁固刑だ。京極家では鳥居に早く死んで欲しくて、食事は粗末の極み、ろくに着替えもさせない劣悪な待遇を受けた」

 

 あんみつもぐもぐ 「そんな悲惨な暮らしでも29年後の明治六年十月、78歳まで生きたんですからまさに妖怪ですね。幕府消滅のあとは東京で暮らし、『洋学にかぶれたから幕府が倒れた』 が口癖だったとか。勝海舟が 『あれも一種の人物かもな』 と呆れてたのがまさにそのとおりという感じ」

 

 しらたまオバケ 「鳥居だけでなく、水野派三羽烏の渋川六蔵(書物奉行)、後藤三右衛門(御金奉行)も閣僚誣告・政事誹謗を問われ処分された。町人身分の後藤は死罪だ。本庄茂平次は逃亡したが、以前に鳥居の命で口封じした井上伝八郎という、やはり鳥居の手下だった男の甥っ子に仇討ちされて斬られた。チンピラには相応しい死かもね」

 

 あんみつにやり 「水野忠邦はふたたび罷免となり致仕。土井大炊頭利位、堀大和守親寚(ちかしげ)、真田信濃守幸貫、堀田摂津守正衡も随時辞職したため、新首相・阿部伊勢守正弘の閣僚は老中に牧野備前守忠雅、戸田山城守忠温(ただはる)、若年寄に遠藤但馬守胤統、酒井右京亮忠毗(ただます)らです。共通してるのは穏健派にして洋学に理解があること」

 

 しらたまオバケ 「阿部は弘化二年(1845)三月、大目付の遠山金四郎を南町奉行として復帰させた。大目付は諸大名の監察が役目だが、泰平の世ではすでに閑職化しており、この間無聊をかこっていたことだろう。53歳にして異例の激務への再任となる」

 

 あんみつゲラゲラ 「この時期が ‟遠山の金さん” の本領発揮になりますね。個別の裁判記録は残念ながら関東大震災で失われていますけど、大きな仕事をたくさん残しています。まずは、改革のころ矢継ぎ早に出してた高札による禁令をいっさい出してないこと。江戸市民にとって、お上からの厳しいお達しがないほどうれしいことはありません」

 

 しらたまオバケ 「そして、鳥居耀蔵によって収監されていた商人たちをことごとく釈放。もちろん再吟味の結果だが、ほとんどが冤罪かごく微罪だったのだからいかに非道が横行してたかわかる。同時にそれが鳥居が飼っていたチンピラ岡っ引きによるものだったから、遠山は十手持ちの逮捕権を没収した。目明しはあくまで補助で、逮捕は必ず同心が行うよう命じたわけだ」

 

 あんみつおーっ! 「本 そして、未決囚については大きく待遇改善ですね。当時の牢屋敷は、収監されてるだけで病死するような不潔と虐待が横行する地獄絵でした。<作造り> なんて牢内での偽装殺人もふつうにあって。一方で江戸の治安対策は厳格にやってます。当時は国定忠治(1810~1851)や清水次郎長(1820~1893)ら有名ヤクザが現役でしたから」

 

 しらたまオバケ 「江戸市中でもっとも熱心にやったのは私娼対策だ。岡場所、羅生門河岸、夜鷹だけでなく、当時は町に遊女がやたら多かったんだ。料理屋や茶屋にも隠売女(かくしばいじょ)を抱えていて、その名称は酌婦、飯盛、矢拾いから歌比丘尼、船饅頭、蹴ころなどさまざまだ。取り締まりが厳しくなると新しい隠語が出来ていく」

 

 あんみつ真顔 「私娼を摘発するだけじゃなく、原因である貧困をどうにかしなければ。身売りの理由は大半が家族の病気や借金です。遠山は隠れ業者60人と100人以上の女性を一斉検挙したとき個別に事由を詳しく調べたら、高利貸による不条理な利息と女衒(ぜげん=斡旋業者)への奉公期間の長さが目立ちました」

 

 しらたまオバケ 「遠山の書いた意見書には 『憂苦の勤めを増し候』 『何とも不憫の儀』 『不慮の災難に遭い渡世営みかね』 『無心の女子共に御仁恵を』 と身売りされた女性への気遣いをにじませている。意見書は阿部老中らに採用され、ある程度の貧民の借金軽減と年季短縮が実現した。庶民の生活は厳しいかぎりだが、遠山が感謝され、慕われた理由がわかるだろう」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 水野忠邦と鳥居耀蔵が退場し、遠山金四郎はふたたび町奉行として急進ではないながら効果的な施策を打ち出し、町人に受け入れられていきました。

 

 次回、遠山奉行期の弘化・嘉永年間をさらに概観し、シリーズ最終回とします。

 

 

 それではごきげんようオバケニコ