*3月24日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科の院生・あんみつ君ニコ、今回は近現代史のしらたま教授オバケとの歴史トークで、テーマは天保の改革周辺。

 

 本日は、暗闘と灰燼 のおはなしです。

 

 

  

 

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 あんみつにやり 「しらたま先生、とうとう天保の改革最大のターニングポイント、<上知令(あげちれい,上地、じょうち とも)> です。汚職や権力闘争じゃなく、政策自体が紛糾するのは政界では滅多にないですね。近年でいうと郵政民営化とか、社会保障と税の一体化に関する三党合意みたいな」

 

 しらたまオバケ 「天保十四年(1843)九月に公布された上知令とは、江戸・大坂最寄りの十里四方をすべて幕領とし、そこに該当する旗本・大名には替地を与えるという有無を言わさぬ収公策だ。目的は租率の高い私領を幕府直轄にし、年貢収入を増やすこと。また飛び地などで領主が錯綜する大都市周辺の支配をスムーズにすることだ」

 

 あんみつほっこり 「ああ、現在でも所有者不明の空き家だったり、分散錯圃で農地の権利関係がややこしくなり、再開発できない駅前とかありますからね。その解決と同時に江戸大坂の沿海防備も強化できるから、これまでの施策と比べても有効に思えます」

 

 しらたまオバケ 「おりからアヘン戦争(1840~1842)における清国の敗北と、半植民地化を認めるような南京条約調印の衝撃は幕閣を覆った。水野はこの点には開明的で、西洋事情に明るい川路聖謨(佐渡奉行)、江川太郎左衛門(伊豆韮山奉行)を中心に、長崎で学んだ高島秋帆を登用してオランダ式軍制の導入を決めた。鳥居耀蔵は不満を持ち彼らを弾圧するが、それは次回にしよう」

 

 あんみつもぐもぐ 「天保十三年(1842)六月、長崎のオランダ商館から、イギリスが清国駐留に続き、日本に艦隊を派遣して開国を迫る計画があるとの極秘重大情報が寄せられました。水野は即刻、渡来の外国船には砲撃せず、食糧や燃料を提供して穏便に帰ってもらうことを命じます(天保の薪水給与令)」

 

 しらたまオバケ 「上知令公布に対して、幕閣はともかく対象の大名・旗本から猛烈な反対の声が挙がる。替地で領内が財政難になることは明らかだし、それ以上に農民たちが反発。領主が変わればさらに重税が課せられるのが目に見えてるからね。動揺は次第に不穏なムードに変わっていく」

 

 あんみつうーん 「本 反対運動は一揆打ちこわしといった暴発じゃなく、年貢前納金や調達銀など、農村からの借金清算を求める債権訴訟といった法廷闘争に持ち込み、現代でいうストライキやモラトリアムを行使してます。こうしてみると、農村のインテリジェンスは相当ですね。もはやお百姓と胡麻の油は絞れば絞るほどよく出る、なんて為政者都合の存在ではありません」

 

 しらたまオバケ 「水野の同役、老中土井利位(としつら)ははじめ賛成だったが、彼の所領、摂津播磨が上知対象になり、領内が反発していることを知り腰がくだけた。土井の不承知が公然となると、彼は反対派の盟主と目される。同調したのは御三家・紀州藩主徳川斉順(なりゆき)だ。将軍家慶の異母弟にあたる」

 

 あんみつしょんぼり 「紀州藩の一部も上知対象となれば、御三家の威光に関わりますからね。堀田正睦(老中)、阿部正弘(寺社奉行)、土岐頼旨(勘定奉行)など主要閣僚が次々反対派に回ると、鳥居耀蔵、渋川六蔵ら水野腹心は彼らを弾劾、中奥小姓・中山肥後が上知反対の上書とともに自刃するという事件まで起こりました」

 

 しらたまオバケ 「水野は将軍の威を立てようと、寝所にまで押しかけて謁見を強いたため、家慶の信任すら失いはじめた。大奥の評判も悪化したので、水野派はほぼ孤立。形勢不利とみた鳥居耀蔵はなんと水野を見限って裏切る。土井老中に反対派追放の機密文書を提供して自己保身に奔ったのさ」

 

 あんみつガーン 「妖怪の面目躍如というか、狡猾の極みですね。閏九月、ついに上知令は撤回。江戸大坂の対象地域にさっそく報せが届き、お祭り騒ぎの喜びです。水野は 『御勝手取扱之儀不行届(政策担当者として大失政があった)』 と老中罷免。文字どおり内閣総辞職となりました」

 

 しらたまオバケ 「罷免のその日、水野は西の丸下にあった役宅の引き払いを命じられる。すると江戸市民数千人が水野邸に殺到し、罵声とともに投石を始めた。制止の役人も番所ごと破壊されたので、鳥居が奉行所総出で鎮定に向かいなんとか収めたのだが、いかに水野が民衆に憎まれ、その失脚が喜ばれたかわかる」

 

 あんみつおーっ! 「まるで1970年代学生運動のときの交番破壊と機動隊出動みたいですね。後任首相は25歳の阿部伊勢守正弘。土井利位と真田幸貫(ゆきつら)が老中再任となります。土壇場で寝返った鳥居耀蔵もまさかの南町奉行留任という」

 

 しらたまオバケ 「うまく保身に成功したと思っただろうが、そうはいかない。翌天保十五年(1844)五月に江城本丸で火災があり、その再建費用を捻出するため水野忠邦は老中に再任された。諸大名から献金を命じるため、嫌われきった水野に汚れ役を押し付けたわけだ。若いに似ず阿部の老獪なところだよ」

 

 あんみつイヒ 「それがわかった水野は復帰した御用部屋で ‟木偶人(=でくの坊)” と陰口されるほどボンヤリし、病気を理由に欠勤がちに。上納金が集まり本丸再建が成った弘化二年(1845)二月、もう用済みとばかりお役御免となりました」

 

 しらたまオバケ 「水野忠邦は致仕蟄居、ふたたび阿部正弘が首相となる。水野の家督は嫡子忠精(ただきよ)に譲られ、同時に浜松から出羽山形へ転封となった。明らかに懲罰だ。しかしこのたった八ヶ月の老中再任期、水野は裏切者鳥居耀蔵への報復を果たしていた。そして阿部正弘政権において遠山金四郎の復活となる」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 黒船来航に先立つ外交問題の混乱と、最大の政争となった上知令を巡る紛糾で、天保の改革は2年5ヶ月で挫折となりました。

 

 次回、南町奉行・遠山金四郎 のおはなし。

 

 

 それではごきげんようオバケニコ