本日は、みつまめ忘れじのNBA名選手を回顧する後ろ向き企画、「みつまめNBAスーパースター列伝」。
第126回は、ビル・レインビア です。
1957年マサチューセッツ州ボストン出身。
父親がガラス容器の大手メーカー社長という裕福な家庭に育ち、インディアナ州にある名門ノートルダム大に進学しました。お坊ちゃんだったので鷹揚がすぎ、学業はおろそか。補講と追加レポートでやっと単位をもらえたらしい。日本と違い、スポーツ選手でも容赦がないのはアメリカですねぇ。
1979年NBAドラフト、3巡目21位(65位)でクリーブランド・キャバリアーズが指名。6ft11in(211cm)のセンターというサイズが買われたものの、ジャンプ力もなくさほどの特徴はなかったのです。
父親のほうが収入が多い、との陰口のなか、2年目にはデトロイト・ピストンズへ放出。これがレインビアの転機になります。
スターターで起用されると、ドアマットだったピストンズにアイザイア・トーマス、ジョー・デュマースなど才能ある選手が揃い、みるみる強豪チームになっていきました。
1985-1986シーズンには平均16.6得点 13.1リバウンドでリバウンド王のタイトル。チームはディフェンスを信条とするスタイルだったので、ちょうどそれにもフィットしたのはキャリアの幸運です。
1980年代トップセンターのひとりに
しかしレインビアの悪名を轟かせたのは、そのダーティなプレースタイル。トラッシュトークから、足を出して引っかけたり、ヒジ打ち、頭突きはもちろん、急所や腎臓を狙ってパンチなどやりたい放題でした。相手のなんでもない接触で、大げさに倒れてファウルをもらう(フロッピング)のもお得意。
こうした資質は試合中だけではなく、プレスやファンにも尊大の極みでした。サインを求める少年ファンの色紙にペッとツバを吐いたエピソードはもはや伝説。勝つためにコート上でだけは非情なんだろう、との弁護も通用しません。
ピストンズは ‟バッドボーイズ” の異名を取る荒くれ集団でしたが、とりわけレインビアがその象徴でした。若き日のデニス・ロッドマンも彼にかかっては小僧扱い。
しかも、レインビアは白人優位主義者のケがあり、チームリーダーのアイザイア・トーマスすら見下し気味で孤高を気取っていました。コートでは勝利のため一丸となれたのがさいわい。
1987-1988シーズン、とうとうイースタンの王者ボストン・セルティックスを倒してNBAファイナル進出。このときはロサンゼルス・レイカーズに敗れたものの、翌年は63勝19敗でファイナルも制し、ピストンズ初優勝。1989-1990シーズンも連覇し、3年連続ファイナル進出、2度優勝の偉業を達成したのです。
レインビアはその後もピストンズの不動のセンターであり続けました。1993年11月、練習中にアイザイア・トーマスと険悪になり殴り合いに発展。レインビアは肋骨を殴られ骨折しますが、同時にアイザイアも右の拳を折ってしまいます。
アイザイアは1ヶ月以上欠場。ケンカが表沙汰になると、レインビアの日ごろの素行を憎むNBA界はおろか、ピストンズファンですらレインビアを非難したため、数日後に彼はあっさり引退を表明しました。アイザイアもシーズン後に引退。一時代を築いたバッドボーイズに相応しい終焉と言えば言えるかも知れません。
14年間、36歳での引退後は父の出資でデトロイトに段ボール製造会社を起業するも、性格鷹揚な彼にビジネスの才覚はさすがになく、数年でクローズしています。
何を思ったか、2002年になって女子プロバスケット 《WNBA》 でデトロイト・ショックのヘッドコーチをオファーされ快諾。白人優位主義の彼が男性優位主義でないわけがなく、女子バスケのコーチなど出来るのかと心配されましたが、就任1年でまさかのWNBAファイナル制覇。最優秀コーチ賞を受賞し、意外な面を見せました。
WNBAでは17年も指揮
指導者として色気が出たか、NBAでのコーチを希望していると公言し、2009年にはミネソタ・ティンバーウルヴズでアシスタントコーチ就任。しかし現役時代の悪名からNBAファンの拒否反応が強く、2012年からふたたびWNBAでコーチ業を続けています。
けっして褒められたプレースタイルの選手ではなかったのに、名声とチャンピオンリングを得て、長くコーチを務めるとは実に幸運な人です。根が悪人というわけではなく、ひたすらボンボンの鷹揚な性格の持ち主なのかも知れませんねぇ。