*3月10日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科の院生・あんみつ君ニコ、今回は近現代史のしらたま教授オバケとの歴史トークで、テーマは天保の改革周辺。

 

 本日は、天保改革おののくばかり のおはなしです。

 

 

 

 

鍋 🍚 日本酒

 

 あんみつイヒ 「しらたま先生、遠山の金さん...遠山左衛門尉景元が48歳で北町奉行に就任したのは天保十一年(1840)三月。前任大草安房守高好の死去を受けてのものでした。南町では筒井伊賀守政憲が20年もの在職期間を務め上げ、天保十二年四月に退任しています」

 

 しらたまオバケ 「どうやら老中水野忠邦にとってはその重鎮ぶりと人望が煙たかったようだ。後任は矢部駿河守定謙(さだのり)。大坂西町奉行だったときは部下に大塩平八郎がおり、親しくその意見に耳を傾けたという大坂民衆側に立っていた人物だ。有能だが水野にとってはそんな彼もまた肌が合わない」

 

 あんみつぼけー 「矢部も名奉行として江戸町人からの信望が篤い人ですね。お裁きが感心されるのは、お上の日ごろの信用がないということだから恥ずべきだ、との発言があります。政治家として理想が高く、評定所でも積極的に建言しました。なのに彼はたった8ヶ月で失脚します。陥れたのは ‟妖怪” 鳥居耀蔵...」

 

 しらたまオバケ 「鳥居はまたも暗躍した。筒井奉行のときに天保の大飢饉があり、市中にお救い小屋を設けるためあちこちから米を買い付けて集めたのだが、なにぶん全国米不足のおりだ。予算オーバーしたのを書面上で帳尻を合わせており、それを町奉行所ぐるみの不正隠蔽だと騒ぎ立てたんだ。そして矢部もそれに加担したとね」

 

 あんみつガーン 「本 町奉行になりたい鳥居に、水野老中も同調したんですか。おりから庄内藩の三方領知替え案件(→「庄内藩致道②」)では酒井家からの撤回嘆願で幕閣に運動資金(賄賂)が乱舞、矢部がそれらを摘発するのを憎んでいた閣僚は彼を解任しました。評定所での詮議では矢部と筒井のふたりが処罰されます。意外なことに、遠山金四郎も賛成側でした」

 

 しらたまオバケ 「このときはまだ水野や鳥居の邪知陰険さがわからなかったのか、ふつうに奉行所の不正を認定してしまった。遠山を知る漢学者の大谷木(おおやぎ)醇堂は明治になって ‟景元には追従軽薄の言無しといへども承意迎合の色あり(上のご機嫌とりはしないが、閣議ではその場の空気を読んでいた)” と評してる」

 

 あんみつえーん 「矢部定謙は桑名藩へお預け処分、御用屋敷に幽囚刑となり、判決からたった四ヶ月後、54歳で亡くなります。憤怨食を断って死す、と抗議のハンガーストライキ死と風聞されました。じっさいはすでに痕疝逆上...胃がんを病んでいたようですね」

 

 しらたまオバケ 「死の床で矢部は、養子鶴松の将来を絶ってしまったことを悔やみ、水野・鳥居の末路を見届けたいと遺言したから、無念さは強くあったようだ。後日談として彼らが退場した弘化二年(1845)、南町奉行になっていた遠山金四郎によって再捜査が成され、矢部冤罪を認定。鶴松を納戸役に推薦してお家再興を許してる。遠山なりに後悔があったのかも知れない」

 

 あんみつおーっ! 「かくして鳥居耀蔵は南町奉行職をゲット。天保十二年(1841)五月号令の改革では、遠山・鳥居が江戸支配の両輪となります。水野老中の政策は、役人の腐敗是正と町人の生活統制。ひと言でいうとあれダメこれダメ、の警察国家です。都市の奢侈を改めるためには一時の衰微もやむを得ない、と強硬姿勢」

 

 しらたまオバケ 「水野と側近が閣議決定した法令は、次々に高札となって江戸近郷の農民、市中町民、ついで全国に通知された。衣食住、催し、芸能からお祭りまで贅沢が規制され、民衆は強い不満を持つ。質屋・湯屋・髪結床などは風紀を理由に営業禁止。役人はスパイを使い、密告が奨励されるに及び、‟世の中眉に火をつけるがごとく、士農おのゝくばかり” と恐れられた」

 

 あんみつニヤ 「質素倹約を強要したのは、緊縮経済というわけじゃなく、それが人倫の美徳につながるというお為ごかしな信念からのようですね。お菓子・料理・衣服・かんざしなど装飾品が値段制限され、出版物・寄席・歌舞伎・富くじ・花火から囲碁将棋遊びまで禁止や制限を受けました。水野に対し ‟魔王の生まれ変りか人面獣心古今の悪玉” と庶民は憤懣のきわみです」

 

 しらたまオバケ 「有名なのは <買試し> といって、鳥居配下の同心が客に化けて禁制品の販売を懇願し、こっそり売った店員がたちまち逮捕されるといった卑怯な摘発だ。ある玩具屋がこれで入牢になったとき、さすがに遠山は黙っておられず、『民を公儀が罠にかけるとは何事』 と即刻釈放したんだが、鳥居はさらに非道な行いを見せる」

 

 あんみつムキーッ 「本 え″、その玩具を買い与えられた家の子ども数十人を白州に集め、その目の前で押収品を杵で叩き壊したんですか、子どもたちは泣き叫んだってそりゃそうでしょう。お上のやることにしてはエゲツなさすぎです。当の鳥居はこれも世直しと吐き捨てたと言いますけど、正気とは思えない」

 

 しらたまオバケ 「水野と鳥居は庶民の娯楽を事のほか憎んでいたようだ。風紀を理由として作家の為永春水や柳亭種彦が内容卑猥として出版禁止のうえ手鎖刑。筆が取れないようにね。柳亭の 《偐紫田舎源氏》 なんて 《源氏物語》 のリライトだから、もしこれが卑猥なら、紫式部は官能小説家ということになってしまう(笑)」

 

 あんみつショック 「防災を理由として、歌舞伎の中村座・市村座・森田座の三座が江戸追放、ついでに花形役者の市川團十郎、尾上菊五郎らを贅沢淫蕩として処罰しました。遠山は庶民の楽しみを奪うのはかえってお上への怨嗟を招くと猛反対しますが、水野鳥居ラインの張り切った閣議は通りません」

 

 しらたまオバケ 「それでも、芝居小屋廃止だけはなんとか阻止。木挽町(東銀座)から浅草に移転させることで手を打った。当時、浅草界隈は江戸市中をわずかに外れてたから、事実上の江戸追放と妥協したかたちだ。おかげでその地は猿若町として繁栄し、遠山は座や客から大いに感謝された。しかしそれくらいしか抵抗できないこの時期、遠山にとっては気の重い日々だったことだろう」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 天保の改革、社会モラルの厳正化をお上が強要する政策は、結局弾圧によって生きにくい世の中になっただけでした。

 

 次回、改革がもたらしたもの のおはなし。

 

 

 それではごきげんようオバケニコ