*10月1日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科のあんみつ君ニコと、近現代史のしらたま教授オバケの歴史トーク、今回のテーマは幕末の庄内藩です。

 

 本日は、庄内藩致道史 のおはなし。

 

 

 

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 あんみつほっこり 「しらたま先生、出羽国庄内藩14万石、酒井左衛門尉家は藩祖忠勝の襲封以来、国替えがありませんでした。九代将軍徳川家重の治世には、酒井忠寄(ただより)が老中を務めるなど譜代大名の重鎮です」

 

 しらたまオバケ 「うん。一方そのせいで、庄内平野の豊かな米作と、最上川や酒田港の水運を有しながら財政難に悩んだ。お手伝い普請など幕府財政の補填を率先してやったからね。それを支えたのが元禄二年(1689)に新潟屋として創業した本間家だ」

 

 あんみつウシシ 「本 本間はもともと佐渡の豪族だったんですね。上杉景勝の佐渡併合で帰服後、酒田に移住した分家が商人に転身していました。米・藍・漆・紅花・苧麻など特産品を大坂で売りさばき、成功を収めます」

 

 しらたまオバケ 「それを可能たらしめたのは伊勢の材木問屋、河村瑞賢(ずいけん,1618~1699)が拓いた西廻り航路、いわゆる北前船だ。酒田港が大坂の堺港と直結したことで堂島の米会所に進出し、帳合(先物取引)で莫大な利益を上げる」

 

 あんみつもぐもぐ 「この資本を元手に、酒田で大地主になったり大名相手の金融で豪商となりました。酒井家からは士分に取り立てられ、保護を受ける代わりに財政支援します。本間光丘(みつおか,1733~1801)の時代には藩の借財をすべて肩代わりしました」

 

 しらたまオバケ 「本間家の巨万の富は、世人をして ‟本間さまには及びもないが せめてなりたや殿様に” と言わしめた。といっても驕るわけじゃなく、持ちつ持たれつの関係と言えるだろう。もっとも象徴的なのは、天保十一年(1840)の長岡転封危機だ」

 

 あんみつうーん 「あぁ、庄内の富裕をうらやんだ親藩大名の松平少将斉典(なりつね)が、大御所家斉に運動して、借財かさむ武蔵川越藩15万石から庄内転封を願い出たんですね。越後長岡藩7万4000石、牧野家を川越に移す代わり、酒井忠器(ただかた)を長岡に異動させる ‟三方領知替え” が実行寸前になりました」

 

 しらたまオバケ 「明けて天保十二年(1841)、庄内の地方巧者、佐藤藤佐(とうすけ)をリーダーとする百姓たちが江戸に赴き、老中たちの駕籠に国替え撤回を求める直訴を行った。本来直訴はご法度だが、『百姓といえども二君に仕えず』 と藩主を思う行動は幕閣を感心させ、処刑されないばかりかついに撤回に至る​​​。ちょうど大御所家斉が薨去し、側近たちが総退場したのも幸運だった」

 

 あんみつにやり 「首相の水野忠邦から印旛沼の開削工事を命じられる懲罰的な処分こそ受けましたけど、庄内藩14万石は安泰でした。ところで佐藤藤佐ってすごい名前ですねぇ。戦後に開学した順天堂大の前身、佐倉順天堂を開いた蘭方医・佐藤泰然のお父さんでしたか」

 

 しらたまオバケ 「藩と領民の深いつながりは、歴史に <天保義民騒動> と刻まれる。藤沢周平が書いた 『義民が駆ける』 という良い小説もあるよ。この事件での運動費、開削の工事費などをすべて拠出したのが本間光暉(こうき,1803~1869)。総額は42500両に及んだという。現在の43億円相当だ」

 

 あんみつねー 「文化二年(1805)に開いた藩校 <致道館(ちどうかん)> は鶴ヶ岡城曲輪に拡張され、実用的な経世論を旨とする徂徠学を採用し、中国古典重視ながらアカデミックな教育を士農隔てなく行いました。人口は約11万人。ええと、藩士は1万石あたり235人に決まってますから、庄内の武士は3240人くらいですね」

 

 しらたまオバケ 「少し前の天明年間のことだけど、幕府巡検使・古川古松軒の見聞では 『民家のもよう綺麗なり。富饒の百姓数多見え、人足の衣服賤しからず』(東遊雑記) とある。『馬肥えふとり、宅居美々しく、上々国の風土なり。酒井候政治正しく』 と最大級の賛辞だ」

 

 あんみつぼけー 「領内の豊かさがわかりますね。もっとも江戸時代ですからお百姓には苛酷で、享和元年(1801)には鳥海山噴火、3年後に大地震(象潟(きさかた)地震)が起きるなど、天災と飢饉には苦しみます」

 

 しらたまオバケ 「弘化三年(1846)六月、酒田の米商人の買い占めにより米価高騰が起こり、酒田港の人夫数千人規模の打ちこわしが起きた。藩役人が必死に鎮定し首謀者5人を逮捕したが、商人側も処分し、領民の求めた年貢減免とお救い金の支給には応じている」

 

 あんみつウインク 「庄内にも商人の強欲や役人の不正はあったでしょうけど、学問の浸透で人権意識が高く、不条理には抵抗する意気と、それを理解する藩政の風土がわかります。そのなかで育ったのが天保九年(1838)生まれの松平権十郎親懐(ちかひろ)ですね。藩の中老・松平権右衛門を父に持ち、24歳にして蝦夷地に赴任していました」

 

 しらたまオバケ 「井伊直弼の安政の大獄、桜田門外の変を経て京都の治安が悪化するなか(→「安政魔風花⑫」)、将軍徳川家茂が上洛することになった。文久三年(1863)一月、それを警備するため江戸で浪人有志による新徴組が結成され庄内藩預かりとなり、江戸に呼ばれた権十郎にその指揮が託される」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 領地替えの危機こそありながら、江戸時代を通じて出羽鶴ヶ岡14万石を統治し、高い経済力と教育で繫栄した庄内藩酒井氏も幕末動乱の中心に巻き込まれていきます。

 

 次回、庄内浪人・清河八郎策動す のおはなし。

 

 

 それではごきげんようオバケニコ