*3月3日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科の院生・あんみつ君ニコ、今回は近現代史のしらたま教授オバケとの歴史トークで、テーマは天保の改革周辺。

 

 本日は、尚歯会夢物語 のおはなしです。

 

 

 

 

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 あんみつウインク 「しらたま先生、鎖国下の江戸時代でもオランダから入ってくる西洋の最新学問に学者たちは貪欲でした。八代将軍吉宗による、キリスト教に関係ない漢訳洋書輸入の緩和(1720)が大きいですね。前野良沢、杉田玄白、吉雄耕牛らによる 《解体新書》 出版は安永三年(1774)のことです」

 

 しらたまオバケ 「原理的なキリスト教に、科学との親和性がないのが幸いして良書が続々招来。コペルニクスの 《天球の回転について》(1543) での地動説、ニュートンの 《プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)》(1687) での万有引力の法則も日本で受容された。人間の知的好奇心というのは偉大なもんだねぇ」

 

 あんみつほっこり 「本 19世紀前半、洋学者を熱狂させたのはシーボルト(1796~1866)ですね。ドイツ出身の医師で自然科学を修め、オランダ東インド会社医官になったことがきっかけで文政六年(1823)来日。長崎鳴滝に塾を開いて医学から自然科学を教授、多くの門弟を育てました」

 

 しらたまオバケ 「だが文政十一年(1828)、いわゆる <シーボルト事件> が起こる。彼が幕府天文方・高橋景保(かげやす)を介して勘定方・間宮林蔵にインド更紗を贈ったんだけど、これを間宮が不審に思い内偵したら、シーボルトと高橋のあいだで禁制品のやりとりがあったことが発覚したというものだ」

 

 あんみつショック 「それはかの伊能忠敬が中心になり、彼歿後3年、文政四年(1821)に完成したての 《大日本沿海輿地全図》 ですね。幕末まで公開されませんでしたから、当時は国家機密です。それを海外に持ち出したとなり、高橋は逮捕ののち小伝馬で牢死。シーボルトは2年に渡る審理のすえ、国外退去処分です」

 

 しらたまオバケ 「取り調べたのは南町奉行・筒井伊賀守政憲。高橋が地図を持ち出したのは、シーボルトが 《オランダ領地図》 とクルーゼンシュテルンの 《世界一周記》 という喉から手が出るような貴重な書籍と交換してくれるというので、それを翻訳して幕府に献上するためだった。自身学者だった筒井はその動機に同情的だったが、やはり法は曲げられなかった」

 

 あんみつぶー 「本 そういえば事件の発覚について、従来は長崎でオランダ船が台風に遭い、積荷から禁制品が見つかったことがきっかけと言われてました。それが2019年12月に三井越後屋、長崎名代の手紙が発見され、事件が露見したのは江戸、それを受けて長崎のシーボルトにも捜査が入ったんだと経緯が詳しくわかりました」

 

 しらたまオバケ 「シーボルトが去っても、鳴滝塾の門人はそれぞれの学究に勤しんだ。同じころ、江戸でも洋学者や好学の士は 《尚歯会(=敬老会)》 と称する談話の会合を持っていたんだが、会の性質は学問から、やがてもっとのびのび海外の空気に触れたいと鎖国下の現状に不自由を感じるようになる。つまり政治への憤懣が話題に上がるわけだ」

 

 

渡辺崋山(左)  高野長英(右)

 

 

 あんみつ真顔 「天保九年(1838)十月、おりしもオランダ風説書から、幕府が日本人漂流者を乗せた英船モリソン号を砲撃、打ち払った一件が尚歯会の話題になります。とくに渡辺崋山と高野長英は大きなショックを受けました。アジア学者として当時高名な宣教師ロバート・モリソン(1782~1834)のことだと思ったからです」

 

 しらたまオバケ 「実はモリソン号はアメリカの商船なんだけど、彼らもそこまではわからない。モリソンほどの人物が使者として来航したのに砲撃とは無体だと、崋山は 《慎機論》、長英は 《戊戌夢物語》 を書いて、幕府の海防方針の無謀を主張した。公に出版されたわけではないが、ごく穏便な文面で、国益を第一に説いた同好向けの冊子だ」

 

 あんみつしょんぼり 「これを密かに入手し、洋学者への報復の機会到来とほくそ笑んだのが ‟天保の妖怪” 鳥居耀蔵。本自体は幕政批判というほどではないので、さらに様子を探るため、配下の小笠原貢蔵にスパイを命じます。先年、浦賀測量で江川太郎左衛門や高野長英に赤っ恥をかかされたあの貢蔵ですね」

 

 しらたまオバケ 「貢蔵は花井虎一という小納戸番が、当時無人島で欧米船が調査していた小笠原諸島への防備入植、開墾事業を計画しているグループに出入りしていて、その地理を尚歯会に問い合わせたという話をつかんだ。別に悪いことじゃないのに、これを密貿易を謀る大罪だと花井を脅迫したわけだ。目こぼしの条件は、尚歯会にそそのかされたとお上に自訴すること」

 

 あんみつガーン 「本 死罪を仄めかされた花井は訴状を出します。というか、鳥居や貢蔵が文面を起草したフシがありますね。‟近来蛮学が盛行” ‟妖辞をつらね公儀をそしり、時政を嘲り人心を惑わさんとす” ‟勢益々つのってついに人を教唆して無人島への渡航、内実は異国の者共と密貿易” ですかぁ...」

 

 しらたまオバケ 「しかも ‟江川・羽倉などが後援” ‟大塩の叛逆に同意していた者もあるとの風説” と、洋学者だけでなく鳥居の政敵に網を広げ、大塩事件にも絡めている意地の悪さだ。鳥居はこれを老中水野忠邦に上申すると、天保十年(1839)五月の尚歯会一斉検挙となる。これが 《蛮社の獄》、蛮社というのが鳥居が呼んだ尚歯会の蔑称であることは特筆しなければならない」

 

 あんみつえーん 「まだ遠山金四郎の前任・大草主膳が北町奉行でした。彼の審問では小笠原渡航と尚歯会は無関係であると認定したうえ、大草奉行は渡辺崋山に ‟意趣遺恨受け候これありや(誰かに嵌められる覚えがありますか)” と聞いたほどです。まったく鳥居のでっちあげで、有為な洋学者たちが葬られてしまいました」

 

 しらたまオバケ 「逮捕投獄者は8名。渡辺崋山は三河田原に蟄居ののち自害を強いられた。高野長英は逮捕後逃亡、10年に及ぶ逃避行を続けることになる。これで洋学者はみな、弾圧をおそれて口をつぐむようになった。開国後に攘夷と称する排外思想が盛んになったのは、この事件の影響で日本から進取の気風が失われたことが大きいだろう。歴史に及ぼした国家的損失は計り知れない」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 19世紀、盛んになった洋学は鎖国下の日本にも大きな自然科学の発展に寄与しましたが、陰険固陋な鳥居耀蔵の保守主義、出世欲のため大きく退潮を余儀なくされました。

 

 次回、天保改革おののくばかり のおはなしです。

 

 

 それではごきげんようオバケニコ