*1月28日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科のぜんざい教授ねこへびと、教え子の院生・あんみつ君ニコの歴史トーク、今回のテーマは戦国大名芦名氏。

 

 本日がシリーズ最終回、摺上原合戦噺 です。

 

 

 

 

鍋 おでん左おでん真ん中おでん右 日本酒

 

 あんみつほっこり 「先生、天正十五年(1587)三月、佐竹義重の次男喝食丸が会津黒川郡鶴ヶ城に入り、芦名盛興と伊達御前彦の娘お岩と政略結婚して、当主・芦名義広となりました。13歳ながら芦名盛氏の娘婿・結城不説斎の証人になっていた時期もあり、才気は買われています。お岩とのあいだに男子が出来れば、遠縁だった先代盛隆と違い盛氏の直系がつながります」

 

 ぜんざいねこへび 「そうなれば家臣団も安心したろうが、佐竹義重が傅役として同行させた付家老の大縄讃岐、刎石(はねいし,羽石とも)駿河らが芦名重臣を差し置いて専横するようになったので、家臣団は分断してしまう。義広を推挙した筆頭家老・金上盛備は板挟みだ」

 

 あんみつしょんぼり 「他家からの養子は難しいですねぇ。佐竹義重は実子が芦名当主になったことで会津を併合したつもりになったのか、常陸・南陸奥の太守気取りです。この状況に激怒したのは猪苗代城主の猪苗代弾正盛国。米沢の伊達領と境を接した芦名方の前線領主は、ついに芦名を見限って伊達政宗に下剋上(鞍替え)してしまいました」

 

 ぜんざいねこへび 「さらに分断のタネがひとつ。力丸って覚えてるかな。芦名盛興と妾の片平御前とのあいだに生まれた男子で、お岩の異母弟だ。もう13歳になっており、本来ならまごうことなき跡取りのはずが、彦が頑としてこれを認めず存在を無視し続けた。養育していた片平助右衛門重綱は義広が来たときにブチ切れ、これまた伊達政宗に下剋上。芦名力丸のその後はまったく不明だ」

 

 あんみつショック 「芦名家中がガタガタになった翌天正十六年(1588)五月、当の彦が疱瘡を患い亡くなりました。享年37。芦名と伊達の盟約の証として輿入れしてきたのに、結局手切れの原因を作ってしまったのは皮肉です。しかも、甥の政宗は訃報を聞き ‟会津乱取りの吉慶” と、これで姻戚関係が切れ、遠慮なく侵攻できると含み笑いしたという」

 

 ぜんざいねこへび 「芦名義広は伊達の侵攻に備え、実家の佐竹義重に援軍を請い安積に出陣した。このときすでに、豊臣秀吉から私戦を禁じる <奥羽惣無事令> が出されていたのは佐竹も知っており、政宗から仕掛けてきた専守防衛のためであると申し訳が立つ。岩城常隆、石川昭光ら小大名も参戦した。どちらも政宗の叔父だから、よほど政宗の軍事行動が横暴に感じたんだろう」

 

 あんみつぶー 「六月、阿武隈川西、窪田の地で伊達軍2000と芦名佐竹連合4000が激突して(郡山合戦)連合軍が勝利すると、岩城常隆の斡旋で講和となりました。奥羽には <中人(ちゅうにん)> という制度があり、大名の紛争が滅亡に至らないよう共存共栄を図る慣例法です。かつて政宗は輝宗横死後に周囲全体を敵に廻した <人取橋合戦> でも、中人に救われた経緯があります」

 

 ぜんざいねこへび 「ヤクザでいうケツ持ちみたいなもんだ。なのに政宗自身は中人を入れず、敵対する大名は攻め潰していくんだから、まったく彼は奥羽の厄ネタだよ(笑)。勇将伊東肥前が討死という危機を脱した政宗は撤退。十月に金上盛備が上洛して聚楽第で豊臣秀吉に謁見、恭順を示すと同時に、政宗のこうした仕打ちを報告している」

 

 あんみつイヒ 「政宗には惣無事令に従う気はさらさらなく、秀吉が関東攻めを実行するまで出来るだけ領土を拡大し、規定事実とするつもりのようです。翌天正十七年(1589)四月、政宗は軍事作戦を再開。東部の伊具郡に侵攻して相馬義胤を釘付けにすると、即南下して猪苗代城に入りました。猪苗代弾正の鞍替えをここで知った鶴ヶ城の動揺は大きかったでしょうね」

 

 ぜんざいねこへび 「弾正の子、左馬介盛胤が忠心を示していたから油断もあったようだ。親子違いしてまで伊達勢を入城させた弾正は先手を命じられ、六月四日に猪苗代湖北、磐梯山麓摺上原(すりあげはら)に総勢23000が進軍する。芦名軍16000は鶴ヶ城から日橋川を越え低い高森山に布陣した。先陣は富田将監隆実」

 

 

 

 

 あんみつぼけー 「隆実は富田将監家を継いだばかりの若き勇将。猪苗代隊、二陣の原田左馬助隊を押し返す活躍でした。ところが芦名の二陣・佐瀬平七郎、三陣・富田美作守氏実が動かず土壇場で寝返り、富田隊を見殺しにしてしまいました。どちらも芦名名代の四天家老家なのに。伊達の調略もあったにせよ、家臣団の分断がこんな肝心なときに」

 

 ぜんざいねこへび 「伊達の片倉小十郎隊、伊達成実隊が水を得たように押し寄せるなか、寄せ手に例の力丸傅役、片平助右衛門隊の姿もあった。金上盛備は今はこれまでと戦況を察したのか、自ら槍を取り、政宗本陣を目指して斬り込んでいったという。享年63。同じく佐瀬大和守種常、常雄親子も、身内の裏切りを恥じて壮絶に討死する。昼すぎ、ついに芦名は総崩れとなって敗走した」

 

 あんみつえーん 「しかも、退路の日橋川の橋が猪苗代隊によって焼かれており、疲労した具足姿の多くの将兵が溺死したと言います。芦名義広は大縄讃岐や刎石駿河に守られ鶴ヶ城に敗走しますが、もはや籠城する兵力もなかったため、わずかな供を連れ六月十日、夜陰にまぎれて常陸の佐竹領に逃亡しました」

 

 ぜんざいねこへび 「伊達政宗は悠々と鶴ヶ城に入り、会津家臣のある者は越後に逃亡、ある者は降伏。ここに戦国大名芦名氏は跡形も残さず滅亡した。義広は夫人のお岩を伴い、芦名盛重を名乗って佐竹領内に扶持を与えられたが、もはや主家を復興する熱意も義理もない。関ヶ原合戦のあと佐竹が秋田転封になると、佐竹義勝と改名して角館の地で寛永八年(1631)、57歳まで生きた」

 

 あんみつアセアセ 「広大な版図を手に入れた伊達政宗も、翌天正十八年(1590)八月、豊臣秀吉による奥州仕置で、惣無事令を無視したうえ、秀吉に臣従していた芦名氏を滅ぼしたことを責められ、会津領総召上げとなりました。なんのための摺上原合戦だったのか、なんのために芦名氏は滅びたのか」

 

 ぜんざいねこへび 「それでも天下一統を急いだ秀吉が、伊達を改易しなかったのは政宗の幸運だった。秀吉の目は西へ西へ、海外侵攻に向いていたからね。伊達の監視は会津に封じた蒲生氏郷や関東の徳川家康に任せた。やがてふたりとも、政宗の懲りない小細工横着に閉口することになるわけだが」

 

 あんみつにやり 「奥羽きっての強大を誇った芦名氏の滅亡は、やはり当主の早世が続いたことと、家臣団の分裂が大きいですね。それも原因は当主を他家からの養子でつないだことです。そして伊達政宗という好戦的な隣国領主の登場。さまざまあれど、結局は芦名って止々斎盛氏と金上盛備の存在がすべてだったのかも知れませんね。先生、今回も勉強になりました~」

 

 

 

 

 

 これで 「芦名興亡抄」 シリーズは完結です。

 今回も長々のお読みをいただきありがとうございました。また新しいテーマでの歴史トークにもぜひぜひご期待くださいませ。

 

 

 それではごきげんよう龍

 

 

*** ねこへび参考図書ニコ ***

 

・杉山 博 「日本の歴史11 戦国大名」

・林 哲 「会津芦名四代」

・佐藤巖太郎 「会津執権の栄誉」

・海音寺潮五郎 「日本名城伝 会津若松城」

「武将列伝 伊達政宗」

・近衛龍春 「佐竹義重」