*1月21日エントリー の続きです。
R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは戦国大名芦名氏。
本日は、芦名盛隆艱難噺 です。
あんみつ 「先生、一代で芦名を強大な大名家にした止々斎盛氏も寄る年波。嫡子盛興に先立たれ、なお戦場を駆け巡ったことで心労が多かったことでしょう。しかも跡取りの盛隆とその夫人、伊達御前の彦との折り合いも良くはなかったようです」
ぜんざい 「養子とはいえ所詮は他人だからね。金上盛備(かながみ・もりはる)や平田左京・松本図書・佐瀬大和・富田将監ら重臣の尊敬が止々斎にあったことも若い盛隆には重かったろうし。止々斎の体が弱ってくると、その身辺も寂しくなる」
あんみつ 「 娘婿の結城不説斎(小峰義親)に送った手紙には 『老衰にて言語道断、散々』 とあり、家臣が挨拶にも来なくなり、炉辺に座ってぼんやり一日過ごしている、とまるで独居老人みたいな侘しい暮らしを嘆いてますねぇ。戦国大名といっても、現代の家庭とあんまり変わらないなぁ」
ぜんざい 「天正八年(1580)六月、40年に渡る戦いの日々の果て、芦名止々斎盛氏は60歳で没した。代替わりの常として芦名盛隆は方針を転換、北関東で激しく争った佐竹義重との和睦にシフトする。佐竹が応じたのは関東情勢の風雲ゆえだ」
あんみつ 「北条氏政が上野・下野の侵攻を進めたので小豪族らに泣きつかれたうえ、武田勝頼が佐竹に親交を求めてきたんですね。長篠での大敗で勢力を挫かれた武田が、復活をかけて関東に進軍してきたからです。佐竹義重に北の芦名と争ってる余裕がないという事情でした」
ぜんざい 「芦名盛隆は20歳の若さながら、止々斎の見込みどおりの勇将だ。外交感覚もあり、金上盛備を上洛させて織田信長に良馬や蝋燭の特産品を献上して誼を通じている。一方で戦略としては、実家二階堂氏を援助して須賀川方面での出兵を優先させたので、重臣たちの不信を招く」
あんみつ 「 不和にはごく内輪な話もありますね。松本図書氏輔が天正二年、田村清顕と安積で競り合ったときに討死しており、当時は11歳の太郎が元服前ながら当主でした。その母に、同じ重臣の平田左京氏範との再婚話が持ち上がります。両家の結びつきが強まるから、盛隆も同意しました」
ぜんざい 「それを太郎が大反対したんだね。まぁ、母の再婚なんて息子にはうれしくないものだ。当主である自分に断りなしとは心外、とお屋形さまである盛隆にも反発した。松本の一族家来も、盛隆も平田家も一年がかりで太郎を説得し、母は平田氏範に嫁いでいったのだが、太郎はこの一件を深く根に持った」
あんみつ 「天正十二年(1584)六月、盛隆が羽黒山東光寺の温泉に避暑に行っている隙に、16歳になっていた太郎行輔は手勢600人で鶴ヶ城を占領。盛隆夫人の彦を閉じ込めてしまいました。協力した栗村下総は太郎の念友だったとか」
ぜんざい 「報せを受けた盛隆は激怒、富田将監が須賀川に避難しようと説くのを𠮟りつけ、ろくに具足もないのに薙刀ひと振り掴んで馬に飛び乗ると、鶴ヶ城に向かって駆け出した。慌ててあとを追った家来は1000人弱。それでも命知らずの猛攻を仕掛けて見事に太郎と栗村を討ち果たし、彦を救出して城を奪還した」
あんみつ 「結果として、盛隆のとんでもない武勇伝になったわけですね。おかげで家臣の信頼を得るとともに、間もなく彦が男児を出産、待望の若君誕生で家中はまとまります。亀の宮(小館山稲荷)に参詣し、亀王丸と命名されました」
ぜんざい 「ところが同年十月十日、芦名盛隆はあろうことか近習の大庭三左衛門に殺害されてしまう。原因はこれまた男色のもつれだ。美少年の大庭を側において寵愛していたのが、やがて他の少年を気に入るようになったので恨まれたわけだ」
あんみつ 「この時代、両刀使いがふつうなんですねぇ。しかも男同士だと武士の意地も絡むから、刃傷沙汰になってしまいます。鷹を腕に停まらせてエサをやっていた盛隆の背後から、大庭の脇差が貫きました。そのうえのしかかって力任せに抉ったから盛隆は絶命。逃亡した大庭は駆け付けた同じ近習の種橋大蔵に討ち果たされます」
ぜんざい 「盛隆はまだ24歳で、亀王丸は生まれたばかり。悲しむ間もなく伊達御前の彦が城主となる。これを見てオオカミとなったのが彦の甥・伊達政宗。18歳で輝宗から家督を譲られるとすぐさま積極策に出て、大沼郡桧原に攻め込んできた(関柴合戦)。反乱した太郎の一族、松本備中守氏輔を調略したのだが、これは富田将監、平田左京の奮闘で撃退に成功する」
あんみつ 「叔母の嫁ぎ先を攻めるなんて、さすがに伊達家中も周辺豪族も支持しません。若いころの政宗は小出森城の八百人斬りだったり、非道で乱暴なことをしてますねぇ。そのせいで愛してくれた父輝宗を拉致事件で喪ってしまうわけですが」
伊達政宗の侵攻
ぜんざい 「天正十四年(1586)十一月、亀王丸が数え三歳、満2歳2ヶ月で亡くなる。奇しくも政宗の右目を奪った疱瘡(天然痘)でだ。天然痘ウィルスは粘膜部で増殖してリンパ節、血管を通り臓器や皮膚を侵すので、結膜に入られたら失明してしまう。19世紀まで日本人の眼病原因の大半を占めた。会津土産の赤べこは、疱瘡神の魔除け発祥だと言われてるよ」
あんみつ 「亀王丸の夭折で、芦名はまた当主不在となります。彦は芦名盛興とのあいだに生まれた娘のお岩が12歳になっていたので、彼女に婿を迎え跡取りにすることにしました。候補者は彦の実家・伊達家の竺丸(小次郎)13歳と、佐竹義重の次男喝食丸(かつじきまる)12歳です」
ぜんざい 「議論は家臣団を二分し、長老の金上盛備や富田将監の意見が通って喝食丸改め芦名義広が当主に迎えられた。先年伊達政宗が芦名盛隆死後に攻め込んできたもんだから、反感が強かったのは無理もない話だろう。しかしこのとき生じた家臣団の不和が芦名衰亡のトリガーとなる」
今回はここまでです。
勇猛だった芦名盛隆、その子亀王丸の相次ぐ早逝で芦名氏家督は混迷。存立は風前の灯になっていました。
次回、摺上原合戦噺 でシリーズ最終回です。
それではごきげんよう。