本日は、みつまめ忘れじのNBA名選手を回顧する後ろ向き企画、「みつまめNBAスーパースター列伝バスケ」 です。

 

 第107回は、チャールズ・バークレー

 

 

 NBA史上、もっとも人気のあった選手のひとりです。

 いわゆる悪童キャラですが、偽悪であることを誰もがわかってたので憎まれることはありませんでした。

 

 とはいえラフプレーや物議を呼ぶ暴言はよくあり、無類のギャンブル好き。それ以上にインタビューがおもしろかったので、プレスはネタに困ったらチャールズのところに行け、と合言葉にしたように、素行面がマイナス評価にぜんぜんならないというトクな性質の持ち主です。

 

 1963年アラバマ州リーズ出身。

 父親が家出してしまったため、公営住宅で母と祖母に育てられました。貧しさから少年窃盗グループに入ったこともありますが、警察の厄介になる前に悔い改め、バスケットボールに熱中するようになります。

 

 練習熱心ではあったものの、身長が伸び悩んだのと、体型がアンコ型だったので高校時代はまったく注目されず。地元の強豪アラバマ大を希望するもかなわず、バスケ部の弱いオーバーン大だけが奨学入学させてくれました。

 

 3年間のプレーでパワーフォワード/センターとして得点にリバウンドに頭角をあらわします。身長は公称6ft6in(198cm)、じっさいは6ft3in(189cm)です。このことはNBA入りしばらく経つまで内緒にしてました。

 

 体重は130キロ。さすがに太すぎなのと、コーチの言うことをあまり聞かない欠点はありましたが、1984年NBAドラフト、1巡目5位でフィラデルフィア・76ersの指名を受けます。この年のドラフトは1位がアキーム・オラジュワン、3位がマイケル・ジョーダンだったので大豊作年の中でも高い評価でした。

 

 プロ入りにあたって115キロまでしぼったバークレーは、当時‟ドクターJ” ジュリアス・アーヴィング、モーゼス・マローン、モーリス・チークスと優勝経験あるベテランのスターがいるシクサーズでも臆せず堂々とした振舞い。

 「今でこそリーグのご意見番になってるけど、ルーキー時代のヤツはただの無法者だったよ(笑)」

と後年ドクターJが語ったほどです。

 

 ‟サー・チャールズ(チャールズ皇太子)” ‟フライング・フリッジ(空飛ぶ冷蔵庫)” ‟ボーイ・ゴージ(大食男,ボーイ・ジョージのもじり)” ‟リーニングタワー・オブ・ピザ(ピサならぬピザの斜塔)” など多くのニックネームはほとんど体型を揶揄したもの。得意としたのはオフェンスリバウンドで、シグニチャームーヴはシュートが外れたボールを奪い取りレイアップでリングに押し込み、カウントワンスローをもらうパワープレー。

 

 レギュラーに定着した2年目に平均20.0得点 12.8リバウンドでブレイクすると、3年目の1986-1987シーズンは平均23.0得点 14.6リバウンドでリバウンド王を獲得しました。以後毎年25得点以上、ふたケタリバウンドの個人成績を挙げます。

 

 

シクサーズ時代のバークレー

 


 ドクターJたちが引退し、チームとしては右肩下がりの状況でNBAを代表するスーパースターになったバークレーは、チャンピオンリングを求めてシクサーズのフロントに移籍を直訴。1対3でフェニックス・サンズにトレードが決まりました。その直後、1992年バルセロナ五輪代表 《ドリームチーム》 に選出。金メダルアスリートになります。

 「やる前から金メダルが決まってるチームなんて、五輪史上俺たちだけだろう。コーチは世界一ラクなミッションだ」

 「オフシーズンの夏にもプレーなんてめんどくせぇと思ったんだけど、チームメイトと仲良くやれたしオリンピックも楽しかった。誘ってくれたマジックに感謝だな」

 

 五輪ではアンゴラ戦でラフプレーをやらかし批判される一幕も。

 「アメリカのスラム育ちは行儀が悪いってのが世界中にわかっちまった」 とどこ吹く風でした。

 

 

 帰国後はサンズに加入し、優勝目指して奮闘のキャリア後半を送ります。続きでは次回後編で。