*5月14日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科のぜんざい教授ねこへびと、教え子の院生・あんみつ君ニコの歴史トーク、今回のテーマは徳川家康です。

 

 本日は、江戸駿府、二元体制 のおはなし。

 

 

 

 

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 あんみつにやり 「先生、慶長八年(1603)正月に征夷大将軍になった家康は、在職2年2ヶ月にして27歳の嫡子、徳川秀忠に将軍職を譲りました。これは大坂城に豊臣秀頼がいることを見据え、諸大名の服従を徳川に一本化させるためですよね。それでも家康は、江戸に開府してからも豊臣家と協調路線を採っています」

 

 ぜんざいねこへび 「将軍になった慶長八年(1603)の七月、11歳にして正二位内大臣(極官から3番目)である秀頼と、7歳の秀忠の娘・千姫を結婚させて大坂城に入れた。証人(人質)でもあれば、両家の和親の印でもある。つまり徳川が諸大名を統治し、豊臣は公家として大坂に籠居しててくれればいい、との当時の穏便な意図が窺えるだろう。秀忠の名は秀吉の <秀> と家康の父広忠の <忠> を合わせたもので、終生変えてないわけだから」

 

 あんみつほっこり 「秀吉が亡くなったのは慶長三年(1598)八月。豊国大明神として豊国神社(現:東山区)に祀られ、神祇大副(おおきすけ)の吉田家が社務を担いました。慶長九年(1604)八月、秀吉の七回忌が盛大に挙行されます。家康も京都町奉行に任じた板倉勝重に指示し、臨時大祭を取り仕切りました」

 

 ぜんざいねこへび 「後陽成天皇から神楽が奉納され、加藤清正・福島正則ら恩顧の大名が参詣した。伏見に在住の徳川譜代大名は遠慮したがね。ところが、京の町衆が花笠鉾を曳航しながら風流踊りを始め、たちまち熱狂、幾万人の群衆が数日間に渡って踊りまくるすさまじい盛り上がりを呈した」

 

 

豊国社祭礼図屏風(徳川黎明会所蔵)

 

 

 あんみつおーっ! 「家康は伏見城にあり、馬揃え・田楽・猿楽能と予定の祭礼を続けようとしましたが、風流踊りがメインになってしまい、その熱狂ぶりに驚いたんですね。京・大坂における秀吉の人気が根強く残っている現実を目の当たりにし、その追慕が秀頼や豊家恩顧の大名に向けられては、徳川将軍家にとって脅威です」

 

 ぜんざいねこへび 「家康が祭礼を主催したのは、かつて秀吉が信長の葬儀を大徳寺で盛大に行ったように、後継天下人としてのアピールと、諸大名の信頼を得てカリスマを増すためだった。同時に豊臣家への監視と京都の支配力を強める目的もある。それが意に反して、人々が秀吉をなつかしむイベントになってしまった」

 

 あんみつアセアセ 「そこで早めに嫡子秀忠に将軍職を譲り、もはや豊臣秀頼が政治の表舞台に立つことはないと示す必要に迫られたんですね。お祭りから約半年後の慶長十年(1605)四月、伏見城において秀忠が将軍宣下を受けます。しかも伊達政宗、上杉景勝、蒲生秀行、真田信之、最上義光、佐竹義宣など東国外様の大々名16万人が秀忠上洛を先導しました」

 

 ぜんざいねこへび 「皇居参内にあたっては、毛利秀元、島津家久、前田利常、福島正則ら西国の太守に下馬歩行で迎えさせた。集まった諸大名は、大坂城の秀頼への挨拶には行かない...というか、暗黙のタブーだったのだろう。秀忠に対するいささかオーバースペックな忠節の強制は、家康個人でなく徳川将軍に臣従せよとの強固な意志だ」

 

 あんみつねー 「秀忠にしても面食らう思いだったかも知れませんね。まだ若く、武将としての実績はありません。むしろ関ヶ原合戦では中山道の信州上田、真田昌幸に足止めされて本戦に間に合わない失態をやらかしました。父家康に忠実で、律儀一徹と評される性格と、骨太で貫禄ある風貌だったのが取り柄でしょうけど」

 

 ぜんざいねこへび 「秀忠への将軍職譲渡を急いだのは、対豊臣家の他に徳川家内部の事情もある。秀忠は家康の三男。長男信康をかつて喪い、次男には秀康がいた。母は大坂の町医者の娘でお万といい、浜松城の侍女であったとき家康のお手つきになったのだが、お万は奔放な娘らしく、どうやら家康は自分の子じゃないと思っていたようだ。信康亡きあとも跡取り候補に入れてない」

 

 あんみつ笑い泣き 「あぁ、秀康の幼名を於義(おぎ)、ナマズ科でトゲのあるギギという醜い魚に似てるからという、お世辞にも愛情を感じない命名なんですよね。お万は妊娠中、家康から曲輪内の木立の蔭に全裸で縛られる折檻を受けたとか。見かねた本多作左衛門が保護して出産させ、3歳になってから家康に認知してもらいましたが、その扱いは冷たいものです」

 

 ぜんざいねこへび 「小牧の陣で家康が秀吉に降伏したあと、その証として秀吉に養子名目の人質に出したのが於義だ。秀吉は小田原合戦のあと、旧下野国守護の名家で、嗣子のない結城氏を継がせたので結城秀康を名乗った。27歳で迎えた関ヶ原合戦では宇都宮で上杉を抑え、その功で松平に復姓、越前福井に75万石を宛がわれたんだが、本人は不満だったようだし、家臣団からも疑義を持たれ、あやうく徳川家分裂を招くところだった」

 

 あんみつぼけー 「秀忠の兄なんですから、本来なら二代将軍になってもおかしくないところ、本人の知らぬところで跡取りから外されたんですからねぇ。天性豪邁だったといいますが、不満が昂じて荒い気性になったのかも。秀忠が将軍になったあと、素行乱れて梅毒を患い、慶長十二年(1607)に34歳で亡くなりました。気の毒だけど、家康と秀忠は骨肉の争いを回避できて安堵したかも」

 

 ぜんざいねこへび 「お万が藩祖生母ということで、福井で生涯大切にされたのは幸いだ。さて、二代将軍秀忠は諸大名を動員して江戸城の本丸・外郭を工事する 《お手伝普請》 を本格化。豊家恩顧の外様大名は自家安泰のため、軍役に替わる臣下の義務として夫役を提供せざるを得ない。伊豆の東海岸から切り出した石材を回漕する船は3000艘に及んだ」

 

 あんみつもぐもぐ 「本 工事はなんと半年で完成させ、秀忠の本丸引っ越しは慶長十一年(1606)九月です。翌年に家康は駿府居住を表明し、もともと側近の異母弟・内藤信成に与えていた地を接収すると、旗本や小大名を動員しての普請を開始しました」

 

 ぜんざいねこへび 「駿府移住を人々は訝しみ、『乱世不遠トノ分別カ(戦乱が近いのか)』 と噂したという。本丸の工事中、女房衆の失火で一部焼失のアクシデントがあったものの、五層七階の天守を頂く壮麗な駿府城の改築が竣工。実に18年ぶりに家康の御座所となり、以後 《大御所》 と呼ばれることになる」

 

 あんみつしょんぼり 「駿府といえば、家康かつての主・今川義元の本拠地。秀吉時代は中村一氏14万石の居城として、金箔瓦づくりの豪華な天守を構え、関東の家康を監視していました。そこを御座所とし立派な天守を改築したことは、今川も秀吉も越え、名実とも天下が徳川に帰したことを諸大名に示していますね」

 

 ぜんざいねこへび 「駿府に移った家康は、江戸の将軍秀忠と二元体制での統治を行う。さいわい秀忠は従順なので軋轢はない。江戸では主に年貢の安定徴収のための検地や割当てを行い、駿府では貿易や外交と役割りを分けていたようだ。それじゃ、そうした政策を実行するためにどんな人物が家康を補佐していたかを見てみよう。実に個性的で強烈な面々だ」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 大坂の豊臣氏と、徳川内部の分裂を収めるため秀忠に早く将軍職を譲り、大御所として駿府を御座所とした家康。幕府政治を軌道に乗せるため、諸政策に手を打っていきます。

 

 次回、駿府のブレーンたち のおはなし。

 

 

 それではごきげんようねこへびニコ